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最後の看板から
今度は急な下り坂を下っていくと、
その温泉はあった。

古い木造の小さな建物の前に立ったとき、
私は呆然とその玄関の上の看板を見上げた。
確かに温泉と書いてあった。
温泉だ。
こんな山奥に。


「ついたね。すごいや。一度来てみたかったんだ!」


セイは機嫌がよかった。


「さ、はいろっ。」


セイはにこにこして私の手を引っ張った。


ご主人に代金を払って、
案内を受けた。
セイは行儀よく敬語で話した。

建物の裏手に露天風呂があるというので、
そちらへ行ってみることにした。
混浴といわれて躊躇したが、
ご主人がご親切におっしゃるには
今日は女性のお客さんは来てないですよ、
とのことであった。

小さな小川に丸木を渡して
片方にだけスチールの手すりがついている橋を
セイはすたすた渡っていった。
私も覚悟を決めてあとに続いた。

渡ると向こうに木の塀があり、
露天風呂はその向こうだった。

簡単な脱衣場があって、篭が二つだけおいてあった。
掘建小屋だが、丁寧に掃除されていて、清潔だった。
そばに箒もおいてあった。

セイは慣れた様子でぱっぱっと服を脱ぎ、
さっさと出て行った。
私も慌ててあとに続いた。


「…わーあ、そーさん、
ぬるいよ。気持ちいい。」


お湯は青白い濁り湯で、湯の花が少し漂っていた。
硫黄の香りがする。

つかってみるとことのほかに心地よかった。
山中の緑も美しく、空気もよい。
かけ流しの湯の音や小川の響きものどかだった。

少し虫が飛んでいた。
…刺すヤツだ。
肌にとまるたびに
容赦なく叩きつぶした。

途中でセイが水筒をもってきて、
水分を補給しつつ、
だらだら二人で談笑しながら、長居した。


どのくらいはいっていたかわからないのだが、
だいぶ長かったと思う。

内湯は熱めときいたので私は断り、
セイだけ「せっかくきたからのぞいてく。」と入った。

セイを待つ間、畳の休憩室があったので
自販機(自販機があるのはびっくりだ。)のお茶を片手に
そこでのんびりと横になった。

他にはひとかたまり、登山家の集団がいた。
あいさつだけしたが、
私が気持ちよくうとうとしていたせいか、
とくに話しかけてはこなかった。

飲み物を半分くらい飲んだところで
私は眠ってしまったらしい。

話し声がした。


「眠ったみたいね。」

「ああ、眠ったね。」

「バカね、この人。」

「まあ、しょうがない。」

「…なにかできることがあるのかしら。」

「…まあ、雑用でもがんばればいいんじゃないの。」

「それしかないわね。…でも必要なら仕方ないわ。」

「バカというか、とんだ災難だよ。気の毒に。」

「だから。それに気づいてないからバカなのよ。」

「…まあ、虐められても気づかない子は
けっして虐められっこにはならない。
バカには勝てないよ。最強といってもいい。」

「まあね。正論だわ。クスクス
つまり、あれなのね…、」

「ああ、つまり…
…じ好き。」


…なんかバカにされてる…
と思った。


「そーさん、そろそろ起きて。」

セイに揺り起こされて、目が覚めた。

「…一時間くらい寝てたよ。
だいぶ休めたでしょ。
汗もひいたね。帰ろ。」

「あ…ねちゃったね。ごめんごめん。」


登山客はとうに出発した後であった。
失礼な連中だな、と思った。


残りの茶を飲んで、ご主人にあいさつして、温泉を出た。

ご主人の顔を見て、
私は、思い出した。


…今日、女性客は、いなかったはずなのだ。


私は建物を振り返ってみた。
古い木造の建物だ。
別におどろおどろしくはなかった。
まったくおかしい点はない。
古いがすっきりした雰囲気で
夏の緑の輝きにとけ込むように馴染んでいた。


きっと夢でも見たのだろう、と思った。


更新日:2009-09-28 13:26:22

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