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St@ge.1 introduction

私はレッスン室で歌を歌う。
歌いながら、あの日のことを思い出す。
私にはとても信じていた人、それこそ両親や親友なんかよりも信頼していた人がいた。
その人と一緒なら夢が叶うと信じていた。
毎日毎日レッスンを行い、アイドルとしての仕事をこなし、夢に向かって着実に歩んでいる、いや駆けていると実感できていた。
そして、その人とともに自分が夢見た世界に立てるのだと。
その人とともに夢の先の世界へ行けるのだと。
そう信じていた。
そんなことは甘い考えだったのだろうか。とても子供じみた甘い考えだったのだろうか。
それとも私には本当は才能なんかないのではないのだろうか。歌うことしかできないのに、現実はその歌さえも才能がなく、見限られてしまったのだろうか。
私はあの人を信じていた。恋焦がれるほどに、というのは違うかもしれないが、それに近い深い感覚で信じていたのだ。
なのに、あの人は私を置いて目の前から消えてしまった。
別れの挨拶もないどころか、それらしいそぶりも見せず、急に事務所からいなくなってしまった。
私が知ったのは朝からの仕事が終わり、あの人に仕事の報告をしようと事務所に戻ったときだった。
高木社長からは前日付けであの人が辞めたという一言だけしか伝えられなかった。
あの人はなぜこんなにあっさり私から離れていったのだろう。
それの答えはいつまでも得られず、あの日から私の足音は止まり、夢は夢でしかなくなった。
あの日から私のステージには重い幕が下りたままになっている。

歌が終わると、元気のいい拍手が耳に飛び込んできた。
驚いて周囲を見回した私はすぐに拍手の元を見つけた。すぐ横に。
「千早ちゃんはやっぱり歌が上手だねっ」
「春香っ!?」
危うくひっくり返りそうになりながら私は驚いた顔で彼女を見つめる。
本当にいつの間にやって来たのだろう、歌に夢中で気づいていなかったようだ。
春香はいまだに拍手を止めず、春の日差しのような温かく明るい笑顔をこちらに向けてくれている。
私がどんな思いで歌っていたのか彼女は気づいていないのだろう。
そのことに安心すると、私も少しくらい笑顔になれた気がした。
「ありがとう」
これ以上拍手をもらうのがはずかしくなり、春香の両手が合わさった上に私の手を乗せて拍手を止めさせる。
「うひゃ」
どこからか変な声が聞こえたので慌てて私は手を離し、周囲を見回す。
「何か聞こえなかった?」
春香のほうに目を向けるが、なぜか彼女は私に目を合わせてくれない。
「なにもー」
なんだか空々しい答えのようにも聞こえるが、彼女がそう言うのだからあれは私の空耳か何かなのだろう。
私は、そうと曖昧にうなずいてみせる。
「何か用事でもあったんじゃないの、春香?」
「あ、えっと…社長が千早ちゃんを探してたから」
「社長が? 何の用事かしら」
思い当たることが何もない。それとも、うだつの上がらないアイドルを切り捨てる決断でも下したのだろうか。ありえないとは思いたいが、実際アイドルランクの上がらないアイドルなわけではあるのだから…
「千早ちゃん…」
春香の真剣な声音にはっとする。
私のすぐ思い悩んでしまう悪い癖が出て、彼女を心配させるような表情でもしてたのだろうか。
彼女が震える唇に注目がいく。私はその唇が動き、はっきりとした言葉が出るのを待つ。
「まだ、あきらめてないよね」
何を、と思いかけて、すぐにそのことに思い至る。
「当然よ」
ここにいるのは春香が私を引き止めてくれたから。
それだけではないけれど、実はそれが一番大事なこと。
「まだ何もつかんでいないもの」
「うん、がんばって」
彼女のがんばってが驚くほど力を与えてくれることを彼女は知らない。私は、ええとうなずき、彼女に笑顔を向ける。
「ありがとう。春香もがんばってね」
「うんっ」
彼女の力強い笑顔に何度励まされただろう。どんなことがあってもくじけない彼女の笑顔に。
それに押されるように私はレッスン室から出ていく。
まだ何もつかんでいない、まだ夢は持っている。
あとはどうやってステージの幕を上げるのか、それだけのことじゃない、千早。

更新日:2009-06-06 18:42:16

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