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挿絵 256*326

「ついに今の仕事もクビになる日が到来したようだな。どうせ、この間の仕事にケチをつける電話なんだろう」
 蟹沢は独り言のように呟き、母とは視線を合わせないように立ち上がった。
「違うわよ。絵美ちゃんからよ」
 母は素っ気なく言い、すぐにまた奥の部屋に戻って行った。どうやら化粧の途中だったらしい。今日もカルチャー・スクールで世間話しをしてくるようだ。
 蟹沢はフリッツとおなじだけ歳をとったような気分で、のそのそと起き上がった。絵美からの電話だって。ゆっくりと受話器を手にする。甲高い声がすぐに響いてくるのか、と嫌な気がしたが、そうではなかった。

「相談したいことがあるんだけど、これから時間ある?」
 いつもは白痴的に明るい声を出す彼女が、なぜだか今日は落ち着いていた。
「どうしたんだ? いつもの君らしくないな」
 蟹沢は彼女の調子とは対照的にからかうような感じで言った。
「お願い、あなたしか相談出来る人がいないの」
「僕でなければならない理由があるってことか? 不思議だね、いつも陽気に暮らしている君に、深刻な悩みなんかあるというのかな?」
 まだ彼はからかい半分で訊いた。
「何も好き好んであなたに相談なんかしたくないわ。でもね、どうしても、今回は」
 ややヒステリックに絵美は言った。
「解ったよ。で、どこへ行けばいいんだ?」
 なんとも表現の出来ない気分になってきた。
「新宿のNSビルに来て。二十九階のいつもの喫茶店でどう?」
「なんだ、君のオフィスの上じゃないか」
「だってあたしは今、職場にいるんだもの──」
 弱々しい声で絵美は言った。
「なるほどね、どうせ僕は自由業で君とは違うからね。いいよ、これらから行くよ」
 蟹沢はほとんど自棄になったような口調をしてしまった。
「じゃあ、店に着いたら会社に連絡してね。あたしはすぐに仕事を抜け出して行くから」
 彼女はさらに声の張りがなくなった。

更新日:2008-12-02 14:09:46

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