• 作品を探す:

小説

携帯でもPCでも書ける!

  • 1 / 37 ページ

第1章 曼荼羅の記憶

挿絵 323*216

 九月とはいうものの、まだ秋の風は吹かず、全身を纏っている暑さが消えなかった。しかも、愛犬のフリッツと落合川沿いをいつものように走ったせいか、蟹沢の全身から汗が流れ落ちている。爽やかな運動というよりも、不快感を助長させてしまったようだ。フリッツも舌を出し、疲れ切った動作で我が家の門まで辿り着いた。若い頃だったら、いくら暑いからといっても元気一杯に駆け戻って来たのだが、さすがに年令には勝てないようだ。だらりと尻尾を垂らして、のそのそと水を飲みだす。自分は老犬なんだ、仕方ないだろう──と自己主張しているようで、見ている側によけい疲れを感じさせる。

 蟹沢は首に巻いたタオルで顔に流れる汗を拭きながら、フリッツのそんな動作を少しの間見ていた。しかしTシャツがびしょ濡れなのと、暑さで狂いそうなので家の中へ入ることにした。時計を見ると午前九時を三分だけ過ぎているのに気づく。いつもの朝の散歩より八分もオーバーしてしまった。

 浴室で熱湯と冷水を交互に浴び、汗でふやけた身体を引き締める。少しはさっぱりしたと思うと、髭を剃り、もう一度冷水を浴びる。全身にこびりついた不快感を最後まで落とし、浴室から出た。ラフな恰好になってキッチンへ行ったが、ここは暑かった。
 避難するように茶の間へ行く。エアコンのスイッチをオンにし、畳に寝転がる。このまま眠りの世界に入っていってもいいな、と思うが、すぐにその考えは否定されてしまった。
 けたたましい電話のベルが響きだした。奥の部屋から母がドタドタという足音とともにやって来る。やがて、そう、自分に電話だと言う。お決まりのパターンだ──そう考えていると、本当にそうなった。

更新日:2008-12-02 14:58:16