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第3章

 もうすぐ、直樹の姉、発音は杏子と同じ『きょうこ』京子の命日である。毎年、杏子はその日は祈りの時間を過ごしていた。朝目覚めてから眠るまで、意識して祈り続けていたのだ。お姉さんの魂が安らかであるように、と。そして、後悔と涙と、感謝の祈りを捧げ続けるのだ。
 杏子にはどうしても果たしたい望みがあった。
 それは、お姉さんのお墓参りをすること。
 昨年はほとんど直樹とまともに話が出来ずに聞き出す機会がなかった。だが、今年は。たとえどんなにイヤな顔をされようとも、彼に責められようとも、杏子は、お姉さんの眠る墓地の場所を聞き出そうと決意していた。
 自分が殺したようなもの。その呪縛は、常に杏子の心を暗く重いもので満たし、その重みに何度も奈落を垣間見る。或いは、お姉さんも自分を恨んでいるのかもしれない、と思うと辛くて苦しくて、いっそ黄泉の国へ行って、直に謝りたいとすら思う。自分の命で償えるものなら。

 その日、夕食を運んでいったとき、直樹は机に向かって何か作業をしていた。いつものように部屋の隅に置いてあるワゴンの上に器を並べ終わると、杏子は意を決して口を開く。
「あの・・・、先生?一つおうかがいしても良いですか?」
「何?」
 振り向きもせずに彼は言う。
「あの・・・。」
 杏子は声が震え、言いよどんでお盆を握り締めて立ちすくむ。その気配に、直樹は少し怪訝そうに振り返る。
「何?」
「あの、‘お姉さん’のお墓の場所を教えていただけないでしょうか。」
少し迷惑そうに眉をしかめた彼の表情に、一瞬たじろいでためらったものの、杏子は一気にそれだけを言った。そして、予想される彼のあらゆる反応を覚悟した。表情を変えずに辛らつなことを言う彼の、その言葉の厳しさ、冷たさを。
直樹は静かにその言葉を聞き、そして、一瞬目を伏せ、そして杏子を見ずに言った。
「一緒に行くかい?」
「えっ?」
 あまりに意外な言葉に、杏子は耳を疑い、すぐには反応出来なかった。
「あ、あの・・・。良いんですか、本当に?」
 何かを特別考えたわけでも、感情の揺れを意識したわけでもなかったのに、杏子の頬には知らずに涙がこぼれた。彼の空気は心なしか優しかった。遠い昔、二人が兄妹のように一緒に笑い転げていた頃のように。その淡い歓喜がふわふわと立ち上るように。
「今度の週末に出かけるから、用意しておいて。」
 直樹は茫然と涙を流す杏子の顔を静かに見つめた。
「ありがとうございます。」
 震える声で杏子はそれだけ言うのがやっとだった。
「ありがとうございます・・・。」
 涙で視界がぼやけ、思わず両手で顔を覆って、杏子はただ頭を下げた。ああ、これでようやく‘お姉さん’に会える。やっと本当に墓前にお詫びが出来る。
 泣きながら出て行った杏子の姿を見つめながら、直樹は切ないような温かいような不思議な思いに包まれた。なんだか分からない。だが、姉の魂をひどく近くに感じた。今まで位牌のある伯父の家にいたときよりもずっと。
 姉は本当に杏子を可愛がっていたのだ。
 家庭環境に恵まれない杏子を、実の妹のように姉はいつも気に掛けていた。そして、それを直樹も、きっと杏子自身も知っていた。二人の絆はきっと姉妹のように強いものだったに違いない。
姉は、・・・あのとき姉は、杏子を救うことが出来て満足だったのだろう。
 人と人との魂の結びつきは、血だけでは語れない。不思議な縁の巡り合わせや必然の宿命に寄って支配されている。そんな過酷で甘えの許されない悠久の流れの中、誰を責められるというのか。人はどうしたっていつか暗い道を辿って再び魂の故郷へ還るしかないのに。

更新日:2009-04-09 20:53:59

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