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 その日。
 佳代が帰ってきた。まったく変わらない元気そうな様子で、ただいま、と直樹に笑いかけた。日本に着く正確な日時を何故か彼女は限定せず、あちこちに寄るから分からない、などと言って伯父夫婦を苛立たせ、誰の迎えも受けずにタクシーで空港からやってきて、荷物を抱えたまま、直樹の治療院にまず立ち寄ったのだ。
 まだ患者がいる時間帯で、直樹はとりあえず家の方で待ってて、と彼女を裏の入り口に案内した。
「適当にテレビでも観てるから、きちんと仕事してきな。」
 姉のような口調でそう言い、佳代は一人で勝手に湯を沸かし、コーヒーを淹れてくつろいでいた。それで、直樹も最後の患者さんまで丁寧に治療し、時間まできっちり仕事をこなしてきた。
「よくこの場所が分かったね。」
 直樹は白衣を脱ぎながらキッチンのテーブルで、買ってきたせんべいなどをぼりぼりかじっている佳代に笑いかけた。
「久しぶりに食べる本場のせんべいはうまいねえ。タクシーに住所を告げたら着いたのよ。感じの良い治療院じゃない。」
「そうかい。」
 直樹にも飲み物を淹れてあげようという気はまったくないらしく、佳代はテレビを観て一人で笑っている。
「アメリカの生活は、どう?・・・楽しかったかい?」
 自分でお茶を淹れながら、どうしても杏子の淹れてくれたお茶の味には近づかないなあ、とぼんやり直樹は思う。杏子は絶妙の温度とタイミングで、直樹の体調と好みを把握した飲み物を作ってくれていたことを、その温かさを失って、彼は知ったのだ。
「どうして?」
 そう佳代に問われて、初めて直樹は自分がどんな表情でそう聞いたのか分かった。
「どうして直樹には分かるのかしらね。」
「・・・何が?」
「きっと父も母も、まして美香は気付かないのに。」
「何かあったんだね。」
 そう。笑って彼を見つめた佳代の瞳の中に、その笑顔の奥に、微かな程度に「おや?」と感じる何かが潜んでいたのだ。杏子ならもっと敏感に感じたであろうそれは、彼女と共に暮らした時間が、彼に育てた感性のようなものだったのかもしれない。
「まあ、だから一旦戻るしかなくなったのよ。」
 佳代は初めて少し息をついた。
「あのね、まだ、親には内緒よ。・・・って直樹にこんな話をすること自体おかしなことなんだろうけど。」
 佳代は、苦笑して話し始めた。
「向こうで、初めて本当にすごい人に出会った。その人間の大きさに圧倒されるようなものすごい人。普段はばりばりの日本人顔負けのビジネスマンなのに、週末になると突然ボランティアに飛び出して行く、とにかくエネルギーの有り余った人。」
 佳代は初めて見るようなとても良い表情をして彼のことを語っていた。それは、その人物の光り方が彼女自身をどんなに美しく照らして、満たしているかが分かるような、癒しよりも一段深い、魂を揺さぶるようなと喜びにあふれていた。

更新日:2009-04-09 11:37:20

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