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第10章

 退院前に、直樹の伯父夫婦が謝罪に杏子の病室を訪れた。陸子は、彼らのことも部屋には通さなかった。杏子が恨んだりしていないことは明白だったし、それで、彼らが許されて楽になって欲しくはなかった。何より、もう、杏子の気持ちを一瞬たりとかき乱したくはなかった。杏子の今の状態が、本当に微妙なバランスで正常を保っているに過ぎないような、たった一つ小さな変化が起こっただけで崩れてしまいそうな脆さと危うさを抱えているように感じられて、陸子は心底、怖かったのだ。
 見舞いの品も受け取らず、丁寧に、冷ややかに廊下で応対した陸子は、二度と訪ねて来る必要はないと彼らに告げた。
 杏子の身体の方は、見た目では大分回復し、病院では退院の許可を出したが、陸子は自分が仕事に出てしまった後のことが不安で、退院を延ばしてもらっていた。陸子はもう仕事に復帰して、多少早めに帰ってくる程度で今は日中の時間が杏子一人になっている。面会者も断ってもらっているので、看護師さんに頻繁に彼女を見てもらっている状態だ。
 精神的なショックはかなり強かったはずなのに、一見、そうは見えないことが、むしろ陸子には不安だったのだ。そういう喪失感のようなものは、時間を置いてじわじわやってくることがあるのだと、亨に言われていた。
 今、たった一人杏子を救える者があるとしたら、それは直樹なのだ。だが、彼からあれ以来音沙汰はない。

更新日:2009-04-09 21:02:25

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