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第9章
「では、訴えるつもりはないということですか?」
陸子の彼は、30代半ばくらいの、金縁の眼鏡を掛けた、その奥に誠実な光を湛えた正義に燃える鋭い目をした男性だった。グレーのスーツを着て、そのオーラはきっと、すっと真っ直ぐに立ち上るような清々しい色をしている。
「はい。」
半分身体を起こしてカーディガンを羽織り、杏子は静かに頷いた。
「入院費用だけでも請求されては?」
「いいえ。」
杏子は迷わず首を振る。窓から差す春の光が柔らかく杏子を包み、彼女の姿は透けそうに眩しく見えた。手帳を出してペンを構えていた彼、有田亨弁護士は一瞬目を見開いて彼女の姿をしっかりと捉え、頷いて陸子に視線を移した。
「本当に、良いの?」
窓辺に佇み、後ろ姿で二人の会話を黙って聞いていた陸子は、振り返って杏子の顔を見つめた。
「・・・ありがとう、陸子さん。それから、有田さんも。」
光を背にして立つ陸子を眩しそうに目を細めて見つめ、杏子は微笑む。その何もかもをもう許して受け入れることに決めた、しんと澄んだ杏子の穏やかな顔に、陸子は軽いため息をついた。
「良いわ。確かに杏子はそういう、人を憎むとか恨むとか、そんなことで苦しんで欲しくはないし。でも、私は決して許さない。それだけよ。」
だけど、たった一つ。杏子の瞳の奥に、一点灯る切ない光を陸子だけが分かっていた。それは、直樹への想い。陸子が、杏子と出会ってからずっと感じ続けていた温かくも狂おしい切なさ、彼と再会を果たした後も、そして別れを決めた後も一切変わらなかったほのかな光。それはきっと彼女の命を支える源だったもの。
今回の事件で流産となり、確かにその出血で多少の血液を失いはした。だけど、それ以外の怪我はそれほどではなかったのに、杏子の身体は生きることすらもう諦めたように、生命活動をやめてしまおうとしていた。血圧が戻らず、身体中が酸素不足に悲鳴を上げた。呼吸が段々細くなり、医者はご家族を呼んでください、と言った。
「この子に家族なんていません!」
陸子は叫んだ。
「助けてください、先生!お願いです。助けて・・・!」
医者の手にすがりついて、陸子は涙を流した。ああ、お姉さん、杏子がいつも話していた彼女が大好きだったお姉さん、どうか杏子を連れて行かないでください。あなたが命を賭けて守ったこの子を、もう一度助けてください。
病院の懸命の処置で、杏子はなんとか命を取り留めた。失うかもしれない怖さを、何も出来ないもどかしさとを、陸子はただ祈るしかなかった。あの、重力と闇の巣窟である深海にどんどん沈んでいくような冷たく重い時間。あんなに長く感じた恐ろしい時間はなかった。
その日。まだ仕事中だった陸子は、会社に店長からおろおろした声で電話があり、従業員の男の子の話に相手があの‘妹’だとすぐに分かった。怪我自体はたいしたことはなさそうだと、駆けつけた救急隊員の話だったという。それでも杏子の意識は戻らず、そのまま救急車で運ばれたと聞き、すぐに会社を早退して病院へ向かったのだ。流産は覚悟していた。目覚めた杏子になんて言おう?と暗澹とした気持ちになっていたのだ。しかし、まさか、杏子の命が危ういとは考えてはいなかった。
疲れて帰ると、杏子はいつもにこにこと夕食の食卓を整えて待っていてくれた。あの如才のない笑顔に今までどれだけ救われ、イライラを浄化し、支えられてきただろう。
あまり激しいものを持たない彼女が、唯一祈ったささやかな願い。傷つけて別れてしまった男の子に会いたい、という、たった一つの想い。それを手にした一瞬にすべてを昇華させようとしたどこまでも透明な魂。守ってあげたかった。他には何も望まない彼女のたった一度の、そして生涯ただ一度の恋を。
それは、杏子にとって唯一の温かいもの、生きる支え、生命の意味そのものだった。直樹と共に生きる時間を死に物狂いで諦めようとしていた杏子は、彼の命を繋いでいくことに、その命を慈しみ、守ることにすべてを注いでいた。
その姿を見つめ続けてきた陸子は、怖かった。
今、それを失った杏子は、もう、生きることへの執着をすっかり解いてしまったように見えたからだ。
‘絶対に許さない’
陸子の思いは静かだが、呪いのような青い炎が激しく燃え上がっていた。
陸子の彼は、30代半ばくらいの、金縁の眼鏡を掛けた、その奥に誠実な光を湛えた正義に燃える鋭い目をした男性だった。グレーのスーツを着て、そのオーラはきっと、すっと真っ直ぐに立ち上るような清々しい色をしている。
「はい。」
半分身体を起こしてカーディガンを羽織り、杏子は静かに頷いた。
「入院費用だけでも請求されては?」
「いいえ。」
杏子は迷わず首を振る。窓から差す春の光が柔らかく杏子を包み、彼女の姿は透けそうに眩しく見えた。手帳を出してペンを構えていた彼、有田亨弁護士は一瞬目を見開いて彼女の姿をしっかりと捉え、頷いて陸子に視線を移した。
「本当に、良いの?」
窓辺に佇み、後ろ姿で二人の会話を黙って聞いていた陸子は、振り返って杏子の顔を見つめた。
「・・・ありがとう、陸子さん。それから、有田さんも。」
光を背にして立つ陸子を眩しそうに目を細めて見つめ、杏子は微笑む。その何もかもをもう許して受け入れることに決めた、しんと澄んだ杏子の穏やかな顔に、陸子は軽いため息をついた。
「良いわ。確かに杏子はそういう、人を憎むとか恨むとか、そんなことで苦しんで欲しくはないし。でも、私は決して許さない。それだけよ。」
だけど、たった一つ。杏子の瞳の奥に、一点灯る切ない光を陸子だけが分かっていた。それは、直樹への想い。陸子が、杏子と出会ってからずっと感じ続けていた温かくも狂おしい切なさ、彼と再会を果たした後も、そして別れを決めた後も一切変わらなかったほのかな光。それはきっと彼女の命を支える源だったもの。
今回の事件で流産となり、確かにその出血で多少の血液を失いはした。だけど、それ以外の怪我はそれほどではなかったのに、杏子の身体は生きることすらもう諦めたように、生命活動をやめてしまおうとしていた。血圧が戻らず、身体中が酸素不足に悲鳴を上げた。呼吸が段々細くなり、医者はご家族を呼んでください、と言った。
「この子に家族なんていません!」
陸子は叫んだ。
「助けてください、先生!お願いです。助けて・・・!」
医者の手にすがりついて、陸子は涙を流した。ああ、お姉さん、杏子がいつも話していた彼女が大好きだったお姉さん、どうか杏子を連れて行かないでください。あなたが命を賭けて守ったこの子を、もう一度助けてください。
病院の懸命の処置で、杏子はなんとか命を取り留めた。失うかもしれない怖さを、何も出来ないもどかしさとを、陸子はただ祈るしかなかった。あの、重力と闇の巣窟である深海にどんどん沈んでいくような冷たく重い時間。あんなに長く感じた恐ろしい時間はなかった。
その日。まだ仕事中だった陸子は、会社に店長からおろおろした声で電話があり、従業員の男の子の話に相手があの‘妹’だとすぐに分かった。怪我自体はたいしたことはなさそうだと、駆けつけた救急隊員の話だったという。それでも杏子の意識は戻らず、そのまま救急車で運ばれたと聞き、すぐに会社を早退して病院へ向かったのだ。流産は覚悟していた。目覚めた杏子になんて言おう?と暗澹とした気持ちになっていたのだ。しかし、まさか、杏子の命が危ういとは考えてはいなかった。
疲れて帰ると、杏子はいつもにこにこと夕食の食卓を整えて待っていてくれた。あの如才のない笑顔に今までどれだけ救われ、イライラを浄化し、支えられてきただろう。
あまり激しいものを持たない彼女が、唯一祈ったささやかな願い。傷つけて別れてしまった男の子に会いたい、という、たった一つの想い。それを手にした一瞬にすべてを昇華させようとしたどこまでも透明な魂。守ってあげたかった。他には何も望まない彼女のたった一度の、そして生涯ただ一度の恋を。
それは、杏子にとって唯一の温かいもの、生きる支え、生命の意味そのものだった。直樹と共に生きる時間を死に物狂いで諦めようとしていた杏子は、彼の命を繋いでいくことに、その命を慈しみ、守ることにすべてを注いでいた。
その姿を見つめ続けてきた陸子は、怖かった。
今、それを失った杏子は、もう、生きることへの執着をすっかり解いてしまったように見えたからだ。
‘絶対に許さない’
陸子の思いは静かだが、呪いのような青い炎が激しく燃え上がっていた。
更新日:2009-04-09 21:01:47