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第8章

 中途半端な体調で新しく治療院に就職、ということは諦めた杏子は、4月からも、それまでアルバイトをしていたコンビニで引き続き働いていた。それでも、つわりがひどい時期は10分と店に立っていられず、店が混む時間帯は相当きつい思いをした。店長には、陸子が保護者のようについて行って、事情を話し、無理をさせないで欲しいと頼んだ。気の好い店長は、良いよ、重いものは男の子に運ばせるから、と笑った。
 部屋代も当分入れなくて良いよ、と陸子は言い、杏子は直樹にしていたように、家の中で掃除や料理などを受け持ってアルバイト以外の時間を過ごしていた。
 つわりも徐々に治まり、華奢な体型の杏子は、4ヶ月に入る頃にはもうお腹が目立ってきた。パッと見は分からなくても、妊婦だよ、と言われると確かにそうだね、という目立ち方だ。胎児の大きさは母親の体型や身長には左右されず、だいたい皆同じくらいなので、華奢な人ほど身体はつらくなる。足三里などの胃経ラインや、女性生理や妊娠に関係する脾経ライン、それから生命の根本を主る腎経ライン、そういう足の三経を自分で鍼や灸で整えながら、杏子は自分の中に育つ、直樹の子どもという存在の愛しさだけに集中していた。地球を抱くように。

 春の陽気が天高く霞をまとい、暖かい南風が萌える芽をなでる頃、杏子はまだ少し厚めの生地のロングスカートをはいて、バイト先に出かけていた。仕事の時間帯を変えていなかったので、彼女は大抵お昼前から3時くらいで仕事を終えていた。ゆっくり家事をして出てくるのにちょうど良かったのだ。
 その日、姉の帰国に備えて、美香が会社を休んで買い物をしていた。車を運転していて少し喉が渇き、目に入ったコンビニで冷たいものを買おうとふと立ち寄った。
 店に入ると、若い女性の店員がにこにこと立ち働き、彼女の動きが少しおかしいな、となんとなくよく見てみると、それは、直樹の家にいたあの女性だった。彼女は美香に気付かず、補充の品物を店に並べている最中だった。高い場所に手を伸ばした彼女を見て、男性の店員が、そんなところに手を伸ばさないでください、と慌てて声を掛けて彼女に駆け寄っている。大丈夫ですよ、と彼女は笑い、だって、見ているとはらはらするんです、と若い男の子もにっこりする。
 美香は、その奇妙に彼女が大事にされている様子に、一体なに?と少しイライラする思いを抱いた。冷蔵庫に並ぶジュース類を選んで再び彼女を真横から見た美香は、その違和感に「え?」と思う。
 以前と違う彼女のお腹のふくらみ。その途端、さきほどの男の子の態度が突然意味を持った。
 この人は妊娠している?!
 ざあっと血が逆流するような暗い怒りが湧き起こった。誰の子ども?!そんなのは明らかだった。つい、この間まで一緒に暮らしていたのだ。直樹の子どもに間違いなかった。では、この女は直樹と寝たのだ。自分を信じてくれ、と言いながら、義兄はこの女を抱いたのだ。
 その途端、美香の心は真っ暗な憎悪が嵐のように吹き荒れ、憎しみで身体が震えた。
 許せない!
 どんなに彼女が尽くし、愛しても、直樹は決して美香を見ようとはしなかったし、触れようとはしなかった。どんなに長い年月を共に暮らしても、直樹の心は一瞬たりとも彼女に向いたことはなかった。その長い苦しみ、悔しさと狂気のような憎しみ。一緒に暮らす気もないくせに、目の前から彼を奪った姉は、離婚を言い出すこともなく一人海外で好き勝手な生活をしている。それでも、仲の良い二人の姿を見せつけられるよりはマシだった。そして、今回、帰ってくると言った姉は、今度こそ離婚すると言い出すのではないかと美香は考えていた。その、ほのかな期待。それが、一瞬で砕かれた。粉々に踏みにじられたのだ。

更新日:2009-04-09 21:01:19

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