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第7章

 もともと、ほとんど連絡をよこさない佳代とここ半年以上全く連絡がつかなくなり、その年の正月も帰らなかったことで、伯父夫婦はかなり動揺して心配していた。その後、元気だと実家の方には電話があったようだが、直樹には相変わらず何の音沙汰もない。筆不精で、電話が嫌いで、何かに夢中になると周りがまったく見えなくなる直情型の性格は変わっていないようだ。佳代にとっては、直樹は今でも‘弟’でしかないのだろう。
 佳代はむしろ、直樹の姉だった京子と仲が良かった。親戚同士が集まると、従姉妹たちの中でも二人は余計にウマが合うらしく、いつも一緒にいた。
 伯父が姉妹のどちらかと結婚する気はないかという話を出してきたとき、佳代は間髪入れずに自分が直樹と結婚するよ、と言った。直樹は、佳代の意外な反応に心底驚いた。お互い、とてもそんな感情は育っていなかったし、実際、一度も二人は男女の仲になったことはない。話が決まると、挙式も披露宴もなしに入籍だけを済ませ、佳代は意気揚々と海外へ旅立って行ったし、直樹も一人で治療院での生活を始められた。初めから、佳代はそのつもりだったのだろう。今思うと、美香の気持ちを知っていて、直樹が意に沿わぬ結婚生活を強いられることを回避してくれたのかもしれない。そう。京子と親しかった佳代は、本当に姉のように直樹を想ってくれていたのだろう。
 その佳代から、不意に一時帰国すると連絡が入ったのは3月に入ってからだった。絵葉書が一枚、直樹宛に実家に届いていたそうだ。伯母から電話があり、分かりました、と彼は苦笑した。佳代は治療院の住所も覚えていないのだ。
 わざわざ自分に連絡をよこして戻ってくるのは、どういう意味なのだろうか。日本で新たに生活を始めたいと言い出すのかもしれないと彼は思った。もともと佳代は勉強のため、とニューヨークへ発ったのだ。いずれは、長女らしく、両親の面倒をみるために家に戻るつもりだったのだろう。もしそうなら、今まで彼女の好意に甘えていた自分も、彼女の夫としての役割を果たすべきなのかもしれない。
 3年前、新入生として杏子の名前を名簿に見つけたとき、同じ名前の人がいるんだな、と彼はあまり気に留めなかった。ただ、その名前の懐かしさに、ずっと忘れていた過去が強烈に、心がすっと透明になるほどの幸福感と共に、寂しさのようなものや悲しみに裏打ちされた憎悪までもが鮮明に蘇ったことは確かだった。目の前で、成す術もなく、去って行っていく彼女を見送るしかなかったあの日。その映像は今でも苦々しく痛みを伴うものだった。そかし、十数年以上前のどんどん薄れゆく記憶の中で、あの子の笑顔だけが鮮やかに揺れて、直樹は目の前にぼやけた虹を見たような気がした。
 その、当の本人が目の前に現れたときは、直樹はその杏子のあまりに変わらない瞳の色に、すべての思いがフラッシュバックしてしまった。姉の死から引き起こされたすべての悲しい流れを。
 怯えたような、強烈な悲しみとも、憐れみ、或いは慈しみのような深い泉を湛えて彼を見つめた杏子の瞳が彼の中の何かを呼び覚ました。ずっと忘れていた大切な何かを。
 足りなかった何か。本当に欲しかったもの。そういう言葉に出来ない想いの塊。つかもうとすると不意に掻き消えてしまう儚い夢の痕。
 そして、ここしばらく杏子は何かを言い出したそうにしていた。ふと開いたままの扉の隙間から彼女の部屋の中が見えたとき、荷物をまとめているらしい様子がうかがえ、恐らく彼女は自分から離れようとしているのだろう、と予想はついた。しかし、直樹には今引き止めるべく約束出来ることが何もなかった。
 自分の役目は終わったのかもしれない、と彼は思った。国家資格を得た彼女は、あとはもうそれを糧に一人で生きていける。
 その日、アルバイトから帰ってきて、少し青ざめた顔で彼を見上げ、友達と一緒に部屋を借りて住むことにした、と告げる杏子を、直樹はただ頷いて見つめた。
「・・・分かった。連絡先は残しておいてくれ。」
 一瞬、杏子は寂しそうな瞳で直樹を見つめた。引きとめてくれると思っていた、とそう云われているような気がして、彼は少し苦しかった。杏子は目を伏せて、涙をこらえているように見えた。

更新日:2009-04-09 21:00:46

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