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杏子は過去に人を死なせたことがあったのだ。
 それは事故だった。事故だったとはいえ、彼女にとっては、それは自分が殺したも同然の思いを深く残す、悲痛な過去だった。
 彼女は幼い頃に母親を病気で亡くし、父親はその悲しみとショックから立ち直れず、それからほとんど働かなくなってしまった。毎日お酒を飲んで、娘にも辛く当たり、彼女は見かねた近所のおばさん達からの差し入れでなんとか命をつないでいたような状態だった。
 杏子には近所に母親同士が友達だった、杏子より少し年上の男の子の友達がいて、その友達と過ごす時間だけが唯一彼女の笑顔が輝く時間だった。彼にはお姉さんがいた。けっこう年の離れたお姉さんで、とてもしっかりしていた彼女は、弟の面倒をみるついでに、いつも杏子にも優しくしてくれていた。仲の良いその姉弟を見て、杏子はいつも幸せな気持ちになっていたのだ。
 あるとき、それはいつものことだったのだが、酔った父親が家を出て更に飲みに行こうとしたところを心配した杏子が引きとめ、もみあいのようになっていた。それは秋にさしかかった少し肌寒い夕方だった。彼女の家のすぐ脇には堤防があり、大きな川が流れていたのだが、その堤防の上で二人は争っていた。
 暴れたはずみの父親に殴られた杏子は、その勢いで川に転落した。その様子をたまたま通りかかったお姉さんが見ていた。そして、泳ぎのあまり得意でなかった杏子はそのまま川に呑み込まれて流されていく。お姉さんは、それを見て咄嗟に川に飛び込んだ。そして、杏子の身体をつかまえ、必死に川岸に向かって泳ぎだした。それでも、お姉さんも当時高校生のまだ子どもだった。小柄だとはいえ、小学生の女の子を抱えて泳ぎきるような体力などなかった。その川は深く、排水も流れ込む濁った大きな川だった。川の勢いに呑まれ、お姉さん自身も次第に溺れ始めた。その頃になってようやく近所の人が駆けつけてくれた。
川岸で必死に手を差し出す大人へ、お姉さんは最期の力を振り絞って、杏子だけを押し上げた。そして、大人たちに抱えられ、助かった女の子の姿をしっかり確認すると、ほっとしたように微笑んで、次の瞬間にはもう川に呑み込まれ、その姿は消えてしまった。
 かなりの距離を流され、お姉さんの遺体が見つかったのは、翌日のことだった。
 自慢の娘だったお姉さんを失ったご両親は嘆きに沈み、母親はそのショックがもとで寝込んでしまった。そして、悲しみにくれる父親は妻の看病と子どもの世話に追われ、その疲れがもとで仕事でミスを犯し、その責任をとって会社を辞めざるを得なくなった。
 目の前で崩壊していく、幸せだったはずの家庭。憧れのすべて。心の支えだった友人。
 そして何より、大好きで、母親のように慕っていたお姉さんが、自分のために、自分を助けて死んでしまったという事実に杏子は打ちのめされた。優しかった彼女の温かい手、その手が、川の流れの中から必死に彼女を救い出そうとしてくれたあの力強い、痛いくらいの愛情、それが今でも生々しく彼女の身体には残っていた。
 お姉さんのお葬式で、じっと涙をこらえて立ち尽くしていた幼な友達。彼はそれ以来、二度と杏子に笑いかけてはくれなかった。
 杏子の父親はその後間もなく肝臓を壊してあっけなくこの世を去り、彼女は児童養護施設に入れられ、その家族ともそれきりだった。杏子がそこを去る日、数人の大人に囲まれて家を出て行く彼女を、『お前を絶対に許さない』彼はそういう目で見送っていた。その、刺すような冷たい瞳。ぞっとするような憎しみの炎。そして、悲しみともっと深い‘絶望’。
 胸が痛んだ。恨まれることではなく、大切な友人にそんな辛い感情を残したまま、自分は何も出来ぬまま去ることが、辛かった。死んでしまいたかった。

更新日:2009-04-09 20:48:55

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