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第6章

 「はあ?結婚していた?なんてフザケた男なの?!」
 翌日、あまり眠れなかった杏子は赤い目をしたまま陸子に誘われていつものオープンカフェで昼食を共にした。その日は杏子はお弁当を持参で、店の人に見つからないようにこそこそと奥の席でお弁当の包みを広げていた。
「陸子さん、声が大きいよ。」
 杏子は慌てて声をひそめる。
「その女、つまりは奥さんの妹ってこと?」
 訪ねてきた女性のことを話し、そのときの彼女との会話をかいつまんで説明した杏子の言葉に、陸子は憤りを隠せなかった。
「それで、既婚者の分際で杏子を家に呼ぶってどういうことよ。何考えてんの?」
 杏子は、昨夜の出来事をまだ話せずにいた。自分でもよく分からないことを説明出来なかったのだ。あのあと、直樹は、ごめん、と言って杏子の頭を優しくなで、ふらふらしながら部屋へ戻っていった。一人取り残された杏子は、しばらくその場から動けず、泣くことも出来ずに、長い間ぼんやりしてしまった。
 そのただ苦しい時間をそのまま引きずり、朝を迎えてしまったのだ。身体にしみついた習慣で、いつも通りの時間を過ごしてきた杏子だったが、直樹もまた赤い目をして具合が悪そうだった様子に、リアルに昨夜のことをフラッシュバックしてしまった。そして、診療の合間に水を飲みに戻ってきた直樹に、時々時間がなくて昼食を持たずに出ていることを知られ、叱られてきたのだった。食費としてのお金は渡してあるのだからそれを使いなさいと。
「・・・それで、杏子、その寝不足の訳は何?」
「えっ?」
 ぼんやりしてしまった杏子の様子を鋭く見咎めて、陸子はカップを口に運びながら聞く。
「昨夜も他に何かあったんでしょう?」
「えっ・・・?ううん、その・・・何も。」
 口に入れた卵焼きを喉に詰まらせそうになりながら、杏子はしどろもどろに小さな声で否定する。
「あんたはどうせ嘘なんかつけないんだから、正直に言いなさい。」
 陸子は杏子と同い年だった。それでも、二人が並んでいると、姉と妹のように見えるくらい二人は年が離れて見えた。もともと化粧をほとんどしなかった杏子は、学生に戻って以来すっかり化粧をやめ、医学の追求に没頭し始め、お金や社会から開放された途端、子どもの顔に戻っていたのだ。
 一つ上にただ優しいだけの兄と、年の離れたやんちゃな弟がいる陸子は、長女としてとてもしっかしりしていた。会社でも男顔負けに自分の意見をどんどん言い、正しいと信じたことはとことん貫く正義感とバイタリティーがあった。そういう彼女にとって、世間というものに染まれず、その純粋さをひっそりと守って静かに生きている杏子は、もどかしくもあり、妹のように幸せを祈りたい存在でもあった。或いは、杏子を前にすると、そういう男らしい感情の持ち主は、誰でも慈しんで守ってやりたいと感じるのかもしれない。そして、そういう人間がいる一方で、そういう無垢な魂をずたずたにしてやりたいと望むような、対極の心を持つ人間もどうしても存在してしまうものだろう。
 陸子に促されて、杏子は昨夜の出来事を、ゆっくりと反芻しながら語った。それは、時々涙で言葉が詰まってしまうような辛い作業だった。それでも、抱えているだけで、その重みでどこまでも沈んでいきそうだった雫を言葉として身体の外に押し出せたことで、杏子は幾分すっきりする。
「そっか・・・。」
 杏子の話を黙ったまま聞いていた陸子はぽつりとそれだけ言って頷いた。
「思ったより、誠実な男なのかもね。」
 そして、何も言わずに彼女は杏子の手をそっと握った。杏子には分からなかったであろうことを、陸子は感じていたのだ。
 彼は、とにかく、杏子を守りたいのだ。あらゆる世間の荒波から。彼がすべての盾となって。その先に待つものが何なのか、きっとまだ彼にも分かっていないのだろう。そして、彼自身、どうしたいのか決められないのかも知れない。
「何かあって、何かを決める前に、必ず私にひとこと相談してね。」
 陸子は言い、杏子はきょとんと頷いた。いつもの柔らかい笑顔で。

更新日:2009-04-27 20:26:01

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