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 伯父夫婦に呼ばれて、久しぶりに中高時代を過ごした家を訪れた直樹は、家の中の空間に微かだが息苦しさを感じ、もうはやここは自分の居場所ではないことをはっきりと知った。
 伯父の話は予想通りの内容だった。佳代の不在をいいことに、他の女性と暮らすとはどういうことだ?と、言葉を濁してはいたが、結局言いたいのはそういうことだ。確かに伯父の、娘の父親としての気持ちは理解出来る。だが、それはもう夫婦二人に任されるべき問題なのだ。佳代自身が父親に泣きついたということでもない限りは。
 直樹は、ただ、杏子に専門学校を卒業させてやりたいのだと、国家資格を取得し、生きる術を手に入れるまで面倒をみているにすぎないのだと説明した。
 詳しい事情を一切説明しない直樹の、それだけでは伯父は納得しなかった。ともすると、杏子に会って自ら身を引くように言い出しかねない話をされ、それまで静かに彼の質問に答えるのみだった直樹は初めて声を荒げた。
「彼女に余計な手出しをしないでください。」
 一同はぎょっとした。特に美香の顔色が変わったことが分かった。今まで、この家で暮らしていた時代から、直樹が大声を上げたり、まして声を荒げることなどほとんどなかった。その彼の、初めて見る激しい怒りの炎。伯父も伯母も、美香も言葉を失った。
「佳代を泣かせるようなことはしません。俺は彼女を尊敬していますし、大事に思っています。ですから、杏子のことは俺を信じていただくしかありません。」
 いつもの淡々とした口調に戻り、彼は言った。
 夕食を用意しているから、と伯母に声を掛けられたが、彼は丁寧に断って伯父の家を後にした。そして、住宅街にある伯父の家を出たあと、そのまま町へ出て、ひたすらお酒を飲んできたのだ。もう、飲まずにはいられなかった。
直樹はそれまで、‘嘘’をついたことはなかった。それは、自分自身に対してもだ。だが、今回、伯父に話したことは、彼には‘嘘’ではなかったにしろ、真実でもなかった。いや、彼自身、自分が本当は何を望んでいるのか把握し切っていなかったのかもしれない。様々な制約・常識や世間というもの、自らの置かれる現在の立場と、据え置きにしてきた数々の事情。突然、仕事を失い、住む場所を失ったという杏子の話を事務から聞いて、彼女が目の前から消えてしまうという恐怖にも似た不安に突き動かされて、後先を何も考えずに家に呼んでしまったこと。二人はお互いに自分自身の心を置き去りにしたまま、状況の急激な変化に寄って、ここまで運ばれてきてしまったのだ。
 今、杏子を突き放したら、彼女は生きていけないかもしれないと、直樹は、まるで消えてしまいそうな所在ない空気が漂う、彼女の透けるような笑顔にいつも胸が痛む。
 ゆらゆらと形を成さないかげろうのような魂が、勉強するときだけ、料理をするときだけ、何かこの世界のものに関わる必要が生じたときにだけ、人という形を成しているかのように感じられた。もし、それらを奪ってしまえば、彼女は人である必要がなくなってしまう。そんな風にすら感じる何か切実な危うさがあった。
 引き止めたいのだ。この世界に。どうしても。
 確かに生きて存在しているという、このぬくもりを、感じ続けていたい。

更新日:2009-04-09 20:58:54

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