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第5章

 ほどなくして、直樹は伯父夫婦に呼ばれた。まだ週の半ばで、仕事がいろいろ詰まってもいたので、週末まで待たずに、今夜、授業が終わったら伺います、と電話を切り、たまたま一人でレポートの提出に職員室へやってきた杏子にそっと告げた。
「今日は夕飯は要らない。帰りも何時になるか分からないから鍵を閉めて先に休んでいてくれ。」
 校内でその類の話をされたことがなかったので、杏子は驚いて直樹を見つめた。なんだか、彼はひどく疲れたような表情をしていた。
「・・・分かりました。」
 ふと心配になったものの、杏子は他に何も言えず、そう答えて職員室を出た。後ろ髪を引かれるように妙に心細い気分だった。
 その夜、なんだか杏子は落ち着かなかった。直樹は特に理由を言わなかったが、なんとなくこの間の女性のことが絡んでいる気がしていた。そして、それを考えると、同時に、彼が結婚していたのだということを思い出し、胸がきりきりと痛んだ。自分はここにいてはいけないのだと、それを何度も考えさせられた。
 幼い日々の中の彼の存在は、今でも苦しいほど杏子の心を熱く支配する。ほとんど覚えていない母親の面影、父の寂しい背中、悲しい思い出に押し潰されそうなとき、自分の人生を恨んでしまいそうになるとき、たった一つの光として彼女を押し留めているのが、あの姉弟の存在だった。あの家を追われるように去らなければならなかった日の、その前後のあまりに辛い事実を、どんなに辛くても目をそらさずに受け止めて、報いるために生き続けることを死に物狂いで選び取ったのは、きっと彼にもう一度会いたかったからだったのだ。それを、不意に出会ってしまって、初めて知った。生きて、幸せでいてくれる姿をひと目見たかった。それだけで満足するはずだった。彼の目の前に現れるつもりはなかった。
 だけど、出会ってしまった。どんな運命のいたずらなのか、こんな風に近くにいて、彼のために出来ることがある。それだけが、杏子が自分をしゃんと立たせている理由、世界と和解していられる原点、頼りなくか弱い若木が大地に根を下ろして必死に光を求めているエネルギーの源だった。
 ‘自分はここにいてはいけない’
 その痛みは考えただけで足が震えてしまうほど、真っ暗闇に彼女を突き落とした。それでも、考えないわけにはいかない。いつか、必ず今のような生活は終わる日がくる。そしてそれはそう遠い日ではないのだ。そう、どんなに長くても、彼女が専門学校を卒業するまでの期間限定の契約のようなものだった。
 だからこそ、夢のように生きていたのかもしれない。すべての現実から目を背けて。

更新日:2009-04-09 20:56:50

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