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第1章
「えっ?一緒に住んでるの?」
陸子は飲んでいた紅茶にむせて、まじまじと杏子の顔を覗き込んだ。
「い・・・一緒にって言っても・・・、その・・・。」
夏の終わり。少し広めの歩道をいっぱいに使って、外に丸テーブルを出した通りに面したオープンカフェ。そのテーブルの一つで、二人は向かい合って座り、陸子は軽い昼食をとりながら雑誌をめくり、杏子は水だけを飲んでいた。お昼の混雑した時間帯。それでもそこに席を取る人々は比較的ゆったりとした時間を求めて来ているのか、通りを眩しそうに顔をしかめて歩いている人々の気忙しさから逃れて幾分柔らかい表情をしている。
「同じ家に住んでるんでしょ?」
「そうだけど・・・。」
「食事とか一緒にしてるの?」
「作ってはいるけど、一緒には食べないよ。部屋に運んでいるだけ。」
「何、それ?」
「それに、ほとんど顔を合わせることもないし。食費を渡されているから、それで。」
「家政婦かい?」
呆れたように陸子は言い、杏子はきまり悪そうに氷の浮かんだグラスを口に運んだ。
「お金貰ってるなら・・・お弁当を作る暇がないときなんか、それから少し使えば良いじゃん。」
日に寄っては、お弁当すら持ってこない状態の杏子に、陸子はその日も頼んだサンドイッチを少し分けてあげながら言った。
「それは・・・。私のお金じゃないから。」
「バカ真面目なやつ。」
「だって・・・。」
しかし、杏子の気持ちも分かっている陸子はため息をつきながらも困ったように微笑んで友人を見つめた。
「まあ、良いや。何か困ったことがあったら私に言いな。聞くだけはいつでも出来るし。」
「うん、ありがとう。」
そう言って屈託なく微笑む杏子の笑顔を、‘天使’のよう、だと思いながら、陸子は祈るような気持ちになった。杏子の顔の作りは、どんなに年齢を重ねても子どものように甘い丸いイメージを漂わせる、柔らかい印象をしている。特に瞳が子馬や子犬を思わせるようなくるんとした、深い黒色だった。生まれる前は背中に翼が生えていたに違いないと信じられるような、時々彼女は悪意のカケラも持ち合わせていないような純真な顔をする。初めて出会ったとき、陸子は、その杏子を取り巻く不思議な空気が苦手だった。清すぎる水に魚は住めない・・・とかなんとか言うように、なんだか責められているような気になるのだ。しかし、杏子は、本当にただのお人好しで、見た目そのままのよく言えば素直な人間で、もっと平たく言えば単純なだけ、だと分かった途端、彼女が大好きになった。
そんな大切な友人に対して、それは言葉として具体的に何かを、ではなくて。この、光が降り注ぐ穏やかな午後の時間、人々が賑わい、書類を片手に遅い昼食をとっているビジネスマンやただただ時間をつぶしてコーヒーをお代わりしているカップル、店に立ち働く陽気なお兄さん達、そして、ほんの僅かな幸せを愛しんで、噛み締めて生きる目の前の友人の笑顔に対して。ただ、この穏やかな光景を与えてくれた奇跡。きらめきの時間に対して。
二人は同じ会社の元同僚だった。
貴金属や宝石類を扱うその会社は、女性や高級志向の客層をターゲットにしていることもあり、また、扱っている商品の高額さのため、会社のイメージというものにひどく敏感で、しかも、社員のそれまでの経歴などにも徹底的にこだわっていた。
知人の紹介で2年前に入社し、やっと安定した職を得てほっとして働いていた杏子だったが、つい一月前に突然解雇を言い渡されたのだ。理由は彼女の生い立ちに関することだった。
会社の社員寮に住んでいた杏子は、その瞬間、仕事と家を同時に失い、しかも、正規に働けるということで念願の夜間の専門学校に通い始めていた彼女は、その学費も払えなくなってしまったのだ。
途方に暮れる彼女に救いの手を差し伸べてくれたのが、その専門学校で教員をしていた『彼』だった。
彼、岩居直樹に、昨年の4月の入学式で再会した杏子は心臓が止まるかと思ったほど、驚いた。どんなに年月が経っていても、彼女が生涯忘れ得ない人。その、後悔と懺悔と深い深い悲しみ、決して届かない強い思慕。狂おしいほどの懐かしさと、吐きそうなほどの自己嫌悪。そういう、暗黒の部分と彼女の人生で唯一温かいものが胸に宿る切ない時代の息吹、決して忘れることの出来なかった辛い想いが一気に杏子を取り巻き、一瞬で全身を支配した。
そして、彼のあの眼。
憎悪と、悲しみと、失った者への限りない愛。
陸子は飲んでいた紅茶にむせて、まじまじと杏子の顔を覗き込んだ。
「い・・・一緒にって言っても・・・、その・・・。」
夏の終わり。少し広めの歩道をいっぱいに使って、外に丸テーブルを出した通りに面したオープンカフェ。そのテーブルの一つで、二人は向かい合って座り、陸子は軽い昼食をとりながら雑誌をめくり、杏子は水だけを飲んでいた。お昼の混雑した時間帯。それでもそこに席を取る人々は比較的ゆったりとした時間を求めて来ているのか、通りを眩しそうに顔をしかめて歩いている人々の気忙しさから逃れて幾分柔らかい表情をしている。
「同じ家に住んでるんでしょ?」
「そうだけど・・・。」
「食事とか一緒にしてるの?」
「作ってはいるけど、一緒には食べないよ。部屋に運んでいるだけ。」
「何、それ?」
「それに、ほとんど顔を合わせることもないし。食費を渡されているから、それで。」
「家政婦かい?」
呆れたように陸子は言い、杏子はきまり悪そうに氷の浮かんだグラスを口に運んだ。
「お金貰ってるなら・・・お弁当を作る暇がないときなんか、それから少し使えば良いじゃん。」
日に寄っては、お弁当すら持ってこない状態の杏子に、陸子はその日も頼んだサンドイッチを少し分けてあげながら言った。
「それは・・・。私のお金じゃないから。」
「バカ真面目なやつ。」
「だって・・・。」
しかし、杏子の気持ちも分かっている陸子はため息をつきながらも困ったように微笑んで友人を見つめた。
「まあ、良いや。何か困ったことがあったら私に言いな。聞くだけはいつでも出来るし。」
「うん、ありがとう。」
そう言って屈託なく微笑む杏子の笑顔を、‘天使’のよう、だと思いながら、陸子は祈るような気持ちになった。杏子の顔の作りは、どんなに年齢を重ねても子どものように甘い丸いイメージを漂わせる、柔らかい印象をしている。特に瞳が子馬や子犬を思わせるようなくるんとした、深い黒色だった。生まれる前は背中に翼が生えていたに違いないと信じられるような、時々彼女は悪意のカケラも持ち合わせていないような純真な顔をする。初めて出会ったとき、陸子は、その杏子を取り巻く不思議な空気が苦手だった。清すぎる水に魚は住めない・・・とかなんとか言うように、なんだか責められているような気になるのだ。しかし、杏子は、本当にただのお人好しで、見た目そのままのよく言えば素直な人間で、もっと平たく言えば単純なだけ、だと分かった途端、彼女が大好きになった。
そんな大切な友人に対して、それは言葉として具体的に何かを、ではなくて。この、光が降り注ぐ穏やかな午後の時間、人々が賑わい、書類を片手に遅い昼食をとっているビジネスマンやただただ時間をつぶしてコーヒーをお代わりしているカップル、店に立ち働く陽気なお兄さん達、そして、ほんの僅かな幸せを愛しんで、噛み締めて生きる目の前の友人の笑顔に対して。ただ、この穏やかな光景を与えてくれた奇跡。きらめきの時間に対して。
二人は同じ会社の元同僚だった。
貴金属や宝石類を扱うその会社は、女性や高級志向の客層をターゲットにしていることもあり、また、扱っている商品の高額さのため、会社のイメージというものにひどく敏感で、しかも、社員のそれまでの経歴などにも徹底的にこだわっていた。
知人の紹介で2年前に入社し、やっと安定した職を得てほっとして働いていた杏子だったが、つい一月前に突然解雇を言い渡されたのだ。理由は彼女の生い立ちに関することだった。
会社の社員寮に住んでいた杏子は、その瞬間、仕事と家を同時に失い、しかも、正規に働けるということで念願の夜間の専門学校に通い始めていた彼女は、その学費も払えなくなってしまったのだ。
途方に暮れる彼女に救いの手を差し伸べてくれたのが、その専門学校で教員をしていた『彼』だった。
彼、岩居直樹に、昨年の4月の入学式で再会した杏子は心臓が止まるかと思ったほど、驚いた。どんなに年月が経っていても、彼女が生涯忘れ得ない人。その、後悔と懺悔と深い深い悲しみ、決して届かない強い思慕。狂おしいほどの懐かしさと、吐きそうなほどの自己嫌悪。そういう、暗黒の部分と彼女の人生で唯一温かいものが胸に宿る切ない時代の息吹、決して忘れることの出来なかった辛い想いが一気に杏子を取り巻き、一瞬で全身を支配した。
そして、彼のあの眼。
憎悪と、悲しみと、失った者への限りない愛。
更新日:2009-04-09 20:48:09