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1.黄昏のリングに立つ乙女

 前の街で仕入れた肉の、最後の一切れを腹に納めたのは、正午をいくらか回った頃だった。
 指についた油を舐め取る。冷たいそれはさほど美味くはなかったが、わざわざ火を熾すのも、その後始末にも手間がかかる。
 立ち上がり、ズボンの汚れを無造作に払った。軽い荷物を背負い直し、山道へ戻ろうとしていた時。
「ああ、そこの若い人」
 背後から声をかけられて、反射的に剣の柄に手をかける。
 ここは東部だ。山道で無法者に襲われ、身ぐるみ剥がされた上に殺されてどこかの溝に放置されるなど、ごくありふれた話でしかない。
 だから、彼の行動は非常に常識的なものであった。
 が。

「……物騒ですね」
 背後にいたのは、まだ十五・六歳程度の、しかも少女だった。
 緩やかに癖がかかった短い金髪が、色の白い端正な顔を縁取っている。黒い上着を襟まできちんと止めて、革の半ズボンとブーツも黒。
 しかし、その存在の一番の驚きは、首から下げられたネックレスだった。
 半円と幾つかの直線をクロスさせて作られた象徴。
 それは、大陸全土で信仰されている教会の掲げる十字架だった。
「……シ……シスター……?」
 呆然として呟く。
 こんな年端のいかない少女が。
 しかも修道女が。
 何故、こんな辺境に。
 混乱する青年に対して、少女は右手を十字架に添えてにこりと微笑んだ。
「どうやら神の信徒でいらっしゃるらしい。少しばかり訊きたいことがあるのだけど、構いませんか?」
 いやこの大陸でその十字架を知らない人間はまずいないだろうとか、信徒が全て善良ではありえないんじゃないかとか言いたいことはそれなりにあったが。
 しかし、長年培われた習慣は意外と強く、彼は従順に頷いた。
「この近くに街があるはずなのですが、どちらに行けばいいのですか?」
 尋ねられたのは思ったよりも簡単な質問で、内心ほっとする。
「それなら、カクトスの街だな。この先の道を下っていけばいい。今から歩けば、夕方になる前に着けるだろう」
 無造作に示した方向に顔を向けると、少女はこちらを振り仰いだ。
「ありがとう。あなたに、神の恩寵がありますように」
 そして、さっさと彼を追い越して歩き始める。
「あ、ちょっと、シスター!」
 慌ててその後を追う。
 少女の足の速さでは、さほど先には進めない。苦もなく追いついてきた青年を、訝しげに少女は見上げた。
「何か?」
「ああ、いや、この辺は物騒だから。俺もその街まで行くところだし、送っていくよ」
 下心はない。とりあえず、下卑た意味では。
 故郷を飛び出し、東部へやってきていたが、幼い頃から叩きこまれた聖職者への敬意を彼はまだ剥ぎ取れずにいた。
「ありがとう。でも、この法衣と十字架だけでも身を護ることはできます」
 敬虔な笑みを浮かべ、少女が答える。
「東部を甘く見ない方がいい。街の中ならそれなりの自治はあるけど、街の外には法などないも同然だ」
 そこで、ここでは自分もその無法者同然であることに気づき、慌てて続ける。
「あ、俺はヴァレス。出身はこれでも沿岸諸国だ。安心できる材料じゃないかもしれないけどさ」
 少女は、おかしそうに小声で笑った。
「ありがとう、ヴァレス。ではご一緒してくださいますか。私はエリスと申します」
 小さな白い手が差し出されて、彼らは握手を交わした。


 この大陸は、過去十二世紀において、西側の沿岸部を中心に発展してきていた。
 内陸に千五百マイルほど入った辺りで、南北に険しい山脈が連なり、大陸を分断していたからだ。
 その連峰を越えられたものは、未だかつて存在しない。
 人々の生活は、やがて大地だけでは立ちゆかなくなってくる。
 沿岸部を中心に、大型帆船による遠隔地へと商売を広げる商人が現れていく。
 やがてそれは面積だけなら小国でしかなかった沿岸諸国に、徐々に力を与えることになる。

 そして沿岸諸国の中には、外洋を越えた先にあるまだ見ぬ大地に夢と利益を求める者が出始めた。
 しかし荒ぶる海を越え、新天地を目指した彼らは、悉く海の藻屑と消えた。
 数十年が経ち、冒険家たちの熱意が世間を動かさなくなってきた頃に、新天地はひょんなところから現れた。
 大陸を分断する山脈は、海岸部でまるで断ち切られたかのような断崖となって終わっている。
 何マイルもの間に渡って船を係留できそうな場所もなく、海底も複雑な地形になっているのか、暗礁がそこここにあり、そして海流も予想できない。
 長年に渡って諦められてきた、大陸の裏側へと向かった者たちがいたのだ。
 そしてそこへ辿りついた船団は、手つかずの豊かな大地を見いだした。
 各国はこぞって開拓団を送り出し、やがて大陸東部は人々であふれかえるようになる。

更新日:2009-03-14 11:13:33

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