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Ⅰ ティーパーティー

 第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまには、短くて危ういながらも平和な時代が確かに存在し、往事の世相を反映するかのように、東洋のパリと称されたモダン都市上海には、現地人の自治政府と外国人居留地が設けられ、世にも不思議な空間が形成されていた。上海には大きく三つのエリアが存在する。一つめは、中国の自治政府がおかれた上海南部にある上海県城で、城壁に囲まれた清朝の香りのする旧市街だ。二つめと三つめは外国人居留地である。外国人居留地のことを租界というのだが、租界は上海中央部のフランス租界と、北部の共同租界とに分かれており、上海県城と二つの租界はそれぞれ個別に警察や軍隊まで保有していたのである。なんというアンバランスな町なのだろう。まるで、一つの町のなかにに三つの国家があるようなものだ。
 共同租界というのはイギリスとアメリカが管轄する地区で、共同租界の中心は長江の支流である黄浦江左岸に築かれた波止場にあった。波止場はバンドと呼ばれ、ロンドンを思わせるような古風で重厚な建物が建ち並び、少し離れたところにはアールデコ風の摩天楼がそびえたちアジアの金融センターとなっていた。バンドは夜ともなればネオンが一斉に光り輝き壮麗な建築群を飾り立てていたものだ。
 バンドをはさんだ北と南には住宅街があり、白い壁に山吹色の屋根が映えるヴェランダハウスともイギリス植民地様式ともよばれる邸宅が軒を連ねていた。ヴェランダハウスは、モンスーン期の雨や七月の強すぎる陽光から建物を保護し、居住者が快適に過ごせるように工夫されており、高級官僚やビジネスマンはそこに居住していた。
 モンスーンにはまだ間のある初夏の午後四時、薔薇やハーブの草花で飾られたヴェランダハウスの庭園広場である。広場の芝生の上には丸くて大きな白いテーブル一つと、そろいの椅子が五つおかれていた。中国娘のメイドが、卓上に銀製のケーキケースとポットを運んできた。メイドがウェッジウッドのティーカップを並べだしたころ、あでやかに装った中高年の婦人たちが席につきだした。
 夫は高級官僚や大会社役員で、家事はメイドがしてくれる。子供たちはもう大きくなって独立し、彼女たちにとって唯一の日課といえば気の合う仲間たちの間で催されるティーパーティーのみ。典型的な有閑夫人である。当時の中高年といえばビクトリア朝時代の気質をもった人々で、「男女平等」をうたう若い世代とは反りが合わないようだった。しかしながら、その娘だけは例外であった。
「はじめまして、お茶会に同席させていただいて光栄です。私は、ザ・ライト・オノラブル・レディー・シナモン・セシル・オブ・リザードといいます。シナモンとだけおよびになられてもさしつかえありません」
 スカートの両端を軽くつまんで一礼した娘はまだ十八そこらであったのだけれども、今まで見たこともない優雅な身のこなしに有閑夫人たちが好感と敬意の眼差しをおくった。

更新日:2009-12-19 15:35:02

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