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挿絵 800*600

 アームストロング夫人は孔雀羽の扇子で口を隠して笑い、また続けた。
「……お母様は厳格なカソリック信者であったので、お父様との関係は深刻なトラウマそのもの、トラウマの矛先はご兄弟にむけられたそうよ。児童虐待よね。ロレンス大佐は、おかげで女の人には興味を持たなくなり、〝ホモ〟になったという噂もあるわ。──まあやだあっ、私ったら、はしたない」
(まるでゴシップ雑誌……)
 シナモンたちは、すっかり閉口した。
 魚料理から肉料理になった。夫人はそれからしばらく食べることに専念しだしたので、姫君とその騎士たちにしばしの平安が訪れた。シナモンは左隣にいるエドガー博士の長い指先が器用に動き、ナイフやフォークで、芸術的なまでに骨のついた雉肉をさばいていくのを何気なくながめていたのだった。
 さらにシナモンは食堂をもう一度見渡した。船長は乾杯の音頭をとってからすぐに司令ゴンドラに戻ってしまっているからここにはいない。〝将軍様〟一行も泥酔中とのことでまたいない。妖しげなサングラスの日本人、それにチャイナドレスの中国人は、離れた席に着いている。
 食後、佐藤と中居が、
「口直しに、下部デッキにあるバーに行きませんか?」
 シナモンとエドガー博士を誘った。四人は螺旋階段を降りてバーに入った。
.
 四人はバー・カウンター席に並んで掛けた。店内では恰幅の良い黒人ピアニストにより軽快なジャズが奏でられている。〝騎士〟たちはスコッチを注文し、姫君は〝ダービーカクテル〟を注文した。
 中国人バーテンが、鮮やかな手振りで、ウイスキーやライムジュース、その他を調合して、ささっ、とシェイクする。琥珀色となった中の液体をグラスに注ぎ、ミントの葉を添えた。イギリス人は、競馬が近づくと、〝ダービーカクテル〟を好んでのむという。シナモンも気に入ったようだ。黒人ピアニストが、黄金の髪を後ろに結った若い貴婦人に、
「唄ってください、余興です」
 と声をかけてきた。シナモンは、
「シャンソンなら……」
 と返事した。唱ったのはパソ・ドブレのリズムで軽快なパリ讃歌「サ・セ・パリ」である。
 佐藤と中居、それにエドガー博士までも立ち上がった。一般に貴族・上流階級の人は、酒の席で唄うのを好まないのだけれども、シナモンはあまり気にしないようだ。ピアノに合わせて流行のシャンソンを何曲か唄った。エドガー博士は感嘆している。
「おおっ、〝コンウオールの才媛〟、こんな才能もあったのか!」
 中居なぞは、
「姫様、すんげえっ、ほんものの歌手になれる──」
 といって惚けた顔になっている。
 このとき、佐藤の目に、カウンターの壁にたてかけられているクリムトの〝接吻〟が目に飛び込んできた。金屏風のような背景、毒々しい色彩、リアルに描かれた男女、退廃的な、死の影……。
 客たちが喝采し、軽やかでハスキーなシナモンの美声の余韻に浸っていたとき、スチュワートの青年を従えた船長が、バーに飛び込んできた。
「ひっ、姫、大変だ。来てくれ!」
 いつもは沈着冷静な髭の船長が明らかに狼狽している。船長とミッシェル青年、シナモンにエドガー博士、それに佐藤と中居が続き、螺旋階段を駆け上っていった。

更新日:2010-07-16 19:01:02

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