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Ⅳ 晩餐会

挿絵 365*273

 〝ミュシャ〟の通路を通って食堂に向かう二人連れがいた。当時の日本人としては背の高い佐藤と、平均的な身長の中居である。盛装すると佐藤も中居も貴公子のようにみえなくもない。ただし、かしこまっていればの話しだが……。  
「ねえ先輩、飛行船のオーナーはオーストリー国籍のユダヤ人でしょ、食事もオーストリー風ですかね? それとも船長はイギリス人でしたからイギリス風ですかね? 意表をついて中華風とか──」
「馬鹿か、飛行船〝シルフィー〟は国際便だ。となったらフランス料理に決まってるだろ」
「そりゃまたなんで?」
「ヨーロッパにはまだ王制をしく国もいくつか残っている。そこの宮廷料理をみてみろ。ほとんどがフランス料理だ。なぜかといえば、フランス料理には癖がないから万人受けするんだ」
 中居は上目遣いに、佐藤の顔を見上げた。
「さすが先輩は顔が広いですねえ、尊敬しちゃうな。ヨーロッパ諸王国の宮廷料理を食べ歩きしたんだあ?」
「中居……殺すぞ──」
 二人が少し歩くと、黄金の髪を後ろに結った若い貴婦人と老紳士の二人も部屋から出てきた。老紳士のエドガー博士が二人を誘った。
「われわれも食堂に行くところなんだ。一緒に行こう」
 中居が佐藤に耳打ちした。
(姫様と僕たちって、なんか運命的じゃないっすか?)
(うむ)
(素直ですねえ、先輩らしくもない) 
(うるっせえっ)
 飛行船のシャンデリアに灯りがともされた。長テーブルの上にはS字意匠の刺繍がはいったピンク色のテーブルクロスが敷かれ、大皿の左右にはフォーク、ナイフ、スプーンが整然と置かれていた。中国人ボーイが、ワインクーラーで八度に冷やした食前酒を運んでくるころ、乗客二十五名の大半が席にそろった。
 シナモンの席は乗客キャビン側の壁に沿った中程にある。シナモンをはさんだ左にはエドガー博士、右には佐藤と中居の席となっている。さらにシナモンの背後には、スチュワートのミッシェル青年が立って完璧な防御陣を敷いていた。というのは、シナモンが、〝将軍様〟一行にからまれないように船長が配慮したためだった。防御陣の一角に腰掛けた中居は少しふてくされている。
(なんで姫様の隣が俺じゃなくて先輩なんっすかっ!)
(ぐちゃぐちゃいうなよ、うるっせえっ)
ウェイターが手際よくコルク栓を抜き、客たちのワイングラスに食前酒を注いで回った。このとき中居がちょっとした異変に気づいた。
「あれっ、〝将軍様〟たちご一行がきませんね?」
「奴らなら寝室で酔い潰れていると思う。さっき〝将軍様〟ご一行の部屋があるあたりから、どんちゃん騒ぎの声がしただろ。急に静かになったところをみると酔い潰れたんだろうよ──」
 佐藤は憮然としている。船長がやってきて、
「皆様の楽しい旅を祈って乾杯!」
 と音頭をとる。客たちがグラスを鳴らしあい宴が始まった。シナモンが笑みを浮かべてエドガー博士にいった。
「おいしいワインですね」
「ローラン・ペリエ・ブリュットです」
 中居が佐藤にきいた。
「ローラン、ぺ……ぺ……?」
「ローラン・ペリエ・ブリュット──フランスワイン。白葡萄品種シャルドネの原酒をベースにした淡い黄色のスパーリングワインでな、ブリュットは辛口を意味する。グラスの底から気泡を生じる時間は長く、ゆずと藁のコンポートのような甘酸っぱい香りが漂い、食欲をそそらせるんだ」
「先輩、うんちく本を丸暗記しましたね? ワインの味も知らないくせに」
「うるっせえっ!」
佐藤は中居を小突いた。晩餐のメニューは次のようなものだった。
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前菜はオマール海老(えび)のムース。素材をすり身にしてトマトのきざみを加え、クリーム状にしてからゼラチンで固めて冷やしたものだ。海老の風味に、ほのかな甘みと酸味が絶妙に加わる。
スープはコンソメ。琥珀色に透き通っており、塩気もほど良く豊かな味わいだ。
 主菜は魚料理と肉料理の二品だ。
 魚料理は、長江河口で水揚げされる上海蟹(しゃんはいがに)を用いたフリカッセで、素材をクリームであっさりと煮込んだもの。桃のシャーベットで口直しすると、すぐに肉料理がでてくる。
 肉料理は中国安徽省(あんきしょう)産の雉を用いたオレンジソースのソテーである。雉肉の香ばしさを酸味の加わった甘いソースが引き立てる。
 デザートは、赤ワインの渋みで甘さを抑えた洋梨のコンポート。これにインド紅茶のダージリンが添えられる。
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更新日:2010-07-16 20:03:36

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