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挿絵 800*600

 シナモンが展望窓から下をのぞくと長江がみえた。大きな中洲である上海島、そこを東に向かうと巨大な河口デルタに突きあたり、河口デルタを抜けてしまえば東シナ海となる。このあたりは大河と海とが混ざり合うため、まるで水彩絵の具の褐色と青色を西と東でにじませたようになるのだ。
(なんて美しいのでしょう!)
 黄金の髪を後ろに結った若い貴婦人が感嘆していると、後方の食堂のほうから声がした。
「計画を変更せねば」
「どうしてなの?」
 若い男と女の声だ。少し間をおいてから男が、
「しっ、展望室に誰かいる」
 と低くささやき、二人の靴音が足早に遠ざかっていった。不審に思ったシナモンが展望室の出入り口から食堂をのぞき込むと誰もいない。代わりに、ミュシャの通路から老紳士がやってきたので、シナモンは老紳士にたずねた。老紳士は乗船のときに、〝将軍様〟一行からシナモンを助けてくれた人物である。
「先ほどはどうもありがとうございました。ところでいまここで、男の人と女の人がお話ししていませんでしたか?」
「いえ、みかけませんでしたよ」
 老紳士は、頭に霜を戴いてはいるが、すらりと手足が伸びた体躯をしており、一見して往年の名優のようにもみえる。老紳士は孫娘に語りかけるようにシナモンを誘った。
「私は船内を散策しているところです。よろしければご一緒いたしませんか?」
「ええ、喜んで。ところで先ほどは余裕がなくて、失礼ながらお名前をおうかがいしていませんでした。どうか教えていただきたいのですが…。私は、ザ・ライト・オノラブル・レディー・シナモン・セシル・オブ・リザードといいます。シナモンとだけおよびになられてもさしつかえありません」
 老紳士の口髭は、手入れの行き届いた美しい銀色になっていた。その口髭が小刻みに揺れた。
「私はエドガー・ホワイト。ロンドン大学で考古学を教えています」
「エドガー博士? あの有名な『ウルのジグラッド』の?」
「おおっ、私の著書をご存じでしたか?」
 ウルとは、中東に位置するイラク南部の古代都市遺跡のことで、チグリス・ユーフラテス文明に属している。ジグラッドとは、彼の地において日乾し煉瓦を積み上げた高層神殿のことをいう。『旧約聖書』にでてくる〝バベルの塔〟もジグラッドの一種だ。映画『アラビアのロレンス』で有名な英雄T.E.ロレンスも、若かりしとき大英博物館に所属する考古学者としてイラクの遺跡を調査している。
 物静かなシナモンとエドガー博士の語調が高揚した。
「……もちろん拝見いたしましたわ。こんなところでお会いできるなんて光栄です、エドガー博士」
「シナモン? きいたことがある。オクスフォード大学で何度も飛び級して卒業したリザード伯爵のご令嬢、〝コンウォールの才媛〟、あなたがそうでしたか!」
 二人は、左舷プロムナードデッキから、もときたミュシャの通路を戻って、乗客キャビンの端にあるT字路を横切り、反対にある右舷プロムナードデッキに歩いていった。
「お嬢さん、私はこの飛行船が小宇宙のように思える。ともすればうるさくなるアールヌーボー様式をシックにおさえているところが素晴らしい」
「同感ですわ。まるで美術館がお引っ越ししてきたかのようですもの。静かでプロペラ・エンジンの振動さえ感じませんのね」
 紳士は微笑んだ。
「飛行船は防振構造になっておりましてね、われわれはこの静寂を楽しむことができるというわけです」
 二人は右舷プロムナードデッキにあるラウンジに入った。

更新日:2009-06-21 23:07:10

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