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挿絵 800*600

タラップを昇っていくシナモンは、長方形をしたデッキが二層構造になっていることに気づいた。上部デッキと下部デッキとがあり、乗客キャビンは上部デッキにある。黄金の髪を後ろに結った麗人が、悪寒を観じて振り向くと、軍服姿の尊大な男が、通訳を通じて話しかけてきた。
「いくらだ?」
「?」
 シナモンが目を丸くしていると、通訳は小声でいった。
「〝将軍様〟があなたをご愛妾に望んでおられる」
 シナモンの平手が飛んだ。通訳は泣きっ面で、
「だから、私じゃなくて〝将軍様〟が……」
 と訴えた。シナモンは、〝将軍様〟をきっとにらんだ。〝将軍様〟一行は、本人と通訳ら随員三人を加えた都合四人だ。上部デッキにいて一部始終を見ていたカメラマンの中居が、今にも〝将軍様〟一行に躍りかかろうとするのを佐藤が止めた。
「よせっ!」
「なぜです?」
 佐藤がさした方向には、取り巻く人々の中から老紳士が飛び出してきて、シナモンをかばうように割って入ってきた。〝将軍様〟のボディーガードが老紳士に殴りかかると、ボディーガードの拳を左肘で払い、代わりに自らの右拳をそいつの鼻先で止めた。たまらずそいつは、床に尻餅をつくはめになったのである。紳士が吐き捨てるようにいった。
「くさいっ。君たちの〝将軍様〟は酒に酔っている。とてもレディーに対する物言いではない。謝るべきだ」
中居が、
「ちぇっ、俺の出番をとっちまったよ。あの爺さんがいなけりゃ、今頃は、あの別嬪さんからチューしてもらえたかもしれないのに……」
 とふてくされると、佐藤が、
「馬鹿か、あの老紳士は、おまえと格が違う。おそらく退役軍人だな。しかも相当の修羅場をくぐり抜けてきた勇者とみた。それより、中居、なんで写真を撮らなかったんだ」
 と真顔でいった。中居は頭を掻いた。
 殴り合いこそは止んだが、デッキはまだ険悪な雰囲気のままになっている。そこに先ほどの船長が現れた。船長は、初老の顎髭を生やした巨体の人であった。
「姫、お美しくなられた。父上は息災ですか?」
「ええ、元気ですわ。お久しぶりです、大佐!」
 シナモンが手を差し出すと、大佐はうやうやしくその手をとった。船長の登場でいがみあっていた〝将軍様〟一行と老紳士は毒気を抜かれたようである。〝将軍様〟は、メタボリックな腹を抱えて笑いながら、自室に消えていった。
 シナモンが、老紳士に、
「助けて頂き感謝いたします」
 というと、船長が、
「私からも礼をいわせてください。姫君の父上は私の恩人なのです」
 と言葉を続けた。
 シナモンの父親と船長は第一次世界大戦のとき、同じ航空隊に所属する戦友だった。
 老紳士は衣服を正して、
「紳士としての義務を果たしたまでです。礼には及びません」
 と答えた。
 佐藤はふと、少し離れたところにいる野次馬の中の東洋人の男女に目がいった。男はサングラスをかけ、女はチャイナドレス姿であった。二人とも痩せている。
「騎士道か──」
「東洋にはない発想ね」
 佐藤の横にいた中居は、
「一件落着したところで先輩、部屋に行きましょうよ。下部デッキにはバーがあるんですよね。のみにいきましょうや」
 そういって佐藤の裾を引っ張ったのである。
(黄金の髪をした貴婦人に、船長、老紳士、東洋人の二人連れ、そして〝将軍様〟……。役者は出そろった。舞台は、豪華巨大飛行船〝シルフィー〟。さあ、物語が動いてきたぞ)
 佐藤は、手帖を胸ポケットから取り出すと、中居を追い越して客室へ向かった。意表をつかれた中居の耳に、船内アナウンスがきこえてきた。

 ──皆様がご乗船になられている当飛行船〝シルフィー〟は、上海─東京間二千キロメートルを、時速七十キロで航行し、目的地東京には三十時間後に到着する予定です。ご用むきの件はお近くのスチュワートにおたずねください。なお、本船の全長は二百四十メートル、幅は四十一メートル、水素ガス容量は二十万立方メートルとなっております。それでは皆様、快適な空の旅を。

 飛行船〝シルフィー〟をつなぎ止めていたロープが斧で断ち切られた瞬間、観衆がどよめいた。銀色の巨体は静かに天空に舞い上がっていく。

更新日:2010-07-16 19:43:05

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