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第2章 篤姫西の丸御輿入れ、家定との結婚

挿絵 182*269

 前述してまいりました通り斉彬なる人物は、いかに英姿雄風を体現しており、その政治手腕、その器量たるや、一地方の薩摩南方部のみに収まりきれるものではない。

 その才能は、まさに天下国家規模でこそ十全に発揮されようものだが、いかんせん江戸幕府発足当時にまで遡る弱点が今に至ってまでも尾を引き、それを難しくしていた。
 その弱点とは他でもない、徳川家が天下の権を一手に統括する立場にする一大契機ともなった関ヶ原合戦のことである。

 この戦いは秀吉死後、形式の上では秀吉に代わって諸大名に政令布告ができる五大老の内、筆頭に任ぜられていた徳川家康である。
 その格下機関である五奉行の筆頭であった石田三成が家康が犯している諸大名間における法規違反を咎め、それに賛同する諸侯を糾合し、西軍総大将として出馬旗揚げした戦のことである。

 この戦に関して豊臣家当主・秀頼とその後見人・淀殿は、双方に対して逆臣討伐を許さねばならないほどに水面下では後ろ盾を崩れされており、各地の諸侯としては、掲げる大義名分はどうあれ、この戦に勝利した側が今後における実質上の覇権者になるのは必定と、たかが中央での私戦、と傍観者でいることでは済まされない重大事であった。

 さてそこで、西軍と東軍の狭間で簡単には去就を定められない大身諸侯のなかに、毛利家と島津家があった。五大老の一人として忠誠厚く大阪城に詰めていた山陰の強豪である毛利輝元がいた。

更新日:2009-03-09 12:54:36