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 異なる価値観を持ち込もうとする者に対して敏感な大奥は、慶喜擁立派が唱える日本の変革などという大局眼で語られても、危機を目の当たりにする機会が無いことを思えば、はるかに身近で実感できる近視眼的な比喩などを用いる紀州派の方が実感できる演説に聞こえたことだろう。紀州派とは、変革を迫る諸外国を打ち払う攘夷思想を遂行し、従来通りの日本で継続しようというのだから、必然、大奥もまた大筋では、その安穏とした日々を破壊される道理がない。ところが慶喜派の主張するところをその対極にあると説けば、日本を内側から作り変えられてしまう、という様な漠然とした、先の見えない恐怖心を煽られることになる。

 既存の体制が続いた場合の未来像は、凡才でもある程度まで結像し易いが、斉彬の目指す、外様親譜の区別無き完全合議制へと政治体制を移行させ、防衛と殖産興業など、近代化に欠かせない新産業部門の設立に伴う予算の組み方・配分・関連人員の養成などの詳細を聞かされれば、強豪外国と競り合うこれからの世には、大奥などという将軍個人にしか恩恵をもたらさない部門は必要なき存在と、女御たちは自明の理として悟らざるを得ない。

 おそらく当の斉彬でさえ、自身が寄与した結果訪れるであろう近代化された日本の将来像について、具体的に現在と比べてどのように可視変容するのか、計画書としての字面を脱した先に、正確無比に結像はしていなかったものと思われる。いわば説得者自身が改革後の完成像を、相手の心中に結像させるに足る、有効な手立てが無ければ、ただただ安穏をよしとする相手には、ただの無闇な破壊者と映るだけであったことだろう。戦艦を目にする機会が無い大奥の女性ならば、そうした軍事色だけが異様に映え、殊更に忌避されもするだろう。両派とも心に訴えかける方法であったにせよ、図らずも既存の枠内据え置きにする、この主張に特化して訴求する作戦という観点においては、紀州派の方には明確に分があった。かくして、悪い憶測のみを強調して繰り返す紀州派による説得手法は功を奏し、本寿院は水戸派と聞いただけで取り付くしまなく、一言の下に撥(は)ねつけてしまうほどの水戸拒絶派となった。

 ここで本寿院について、勝手な推論を一つ。これは染められたとみるよりは、彼女のみならず、大多数の大奥に詰める女性が同意見であり、ここを今後も生活の基盤根拠とせねばならない本寿院としては、自分一人が浮き上がった存在になるわけにもいかない苦衷があり、いうなれば内心とは別に、多数派を装わねばならなかったと、そのように見ることもできるのであります。身内にいつ暗殺が行われるかわからない江戸城内にあっては将軍とて例外ではありません。細々と病弱ながらも、息子が存命しつつ執政可能な間は、大多数の家臣が護持する論旨に同調する振りに徹しさせることで、余計な恨みは買うべきではないとする母の心配りと場しのぎの選択だったのではないかと。

 後の家定による慶福決定についても、定石通り多数派に殉じたとはいいながらも、その実、斉彬の主張を広く認知させる一大契機になったことからも、為政者として遅まきながら徐々に開国の必要性を国内に浸透させる為の時間を稼ぐ表明した英断とも映るのです。斉彬の擁立行動は国難という事態に在って、攘夷派も内心では自説を通すことへの限界を感じており、こうした身内同士の政争に勝利したからとて、根本的な解決にはならないことを洞察できる者もいたことを思えば、攘夷派には敢えて一度、形式的に勝利という華を持たせることで、その後それを貫くには、層の厚い開国派との妥協は不可欠、という結論へと誘導させる布石であった、と読み取れるのです。


 この本寿院よりも年嵩で、相談役でもある老女数名を彼女の説得役に当たらせるものの、素知らぬ顔で本寿院側に仕える、紀州派の息のかかった取り巻きが無効にすべく暗躍するので、効果が無かった。つまり、植え付けられた悪印象に訂正を加えても、元に戻してしまうような言説を慶喜派の見えざる処で加えているらしく、かつて朝廷留学で政治工作を学んだ天璋院様でさえも、一手打つたびに打ち消されてしまうような、一進一退の不毛なイタチごっこの繰り返しに、有効な方策が尽きてしまった」。上記の様に、入輿までは周囲の共同作戦で順調に運んでいたが、いよいよ御台所による単独での家定への説得工作という段階になった今、「事態を好転させる糸口をつかめず、篤姫は困り果てていた」、と説明されるほどに、彼女は将軍に直言できる一歩手前の段階で、足踏みを余儀なくされる難局に立たされていた内幕が、西郷さんが春嶽へ打ち明けた話から窺える。

更新日:2009-05-05 17:10:33

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