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星影の啼鳥
宵闇が訪れる頃、人々は1日の終りを知る…それは《沼》でも同じ事だ。ただし、そのもの悲しさに誘われるように街路に人が充ちるのが、他の都市とは少し違うかもしれない。
東人街は、そんな夜の放浪者たちにとって恰好の遊び場である。しかし、門から程近い茶店は別…この店の主は、夜の帳とともに暖簾を下げてしまう。《沼》の娘たちの溜り場は、酔客に扉を開かない…何故なら、夜こそが店主の仕事時であるからだ。
さて、東人街の賑わいも高まる時刻、件の茶店の戸を叩く者があった。聞きつけて屋上から駆け下りてきた娘…即ち店主は、戸口へ向かいながら呼び掛ける。
「ゴメンなさいね~、店、もう閉めたヨ。何か御用アルカ?」
…返事はない。不可解に思いながら、娘は掛け金を外し、扉を開けた。そこには、小柄な老女が杖に縋って立っていた。乾ききった肌は枯れ木でもあるように、顔面を縦横に走る皺に目も埋もれている。痩せ細った木彫りの像の如き老女に、しかし、娘は驚愕と怖気に立ち尽くした。老女がゆっくりと顔を上げる。
「夜分にすまないね。入れてもらって構わないかね?」
老女は彩華語でそう言った。娘は黙って頷き、老女を招き入れた。店へ入るなり、老女は尋ねもせずに椅子に掛ける。そして厨房へ向かう娘を呼び止める。
「あぁ、いいよ。ワタシャ客じゃないんだ」
「でも…」
「いいから、お掛け」
会話は全て彩華語で交わされる。娘が向かいの席に座ると、老女は切り出した。
「“裁定者”に逢ったんだ」
「え…?」
「驚いたよ、あの男の星宮でお前を見た時は。まさかとは思ったが…本当だったんだねぇ」
「それ…どういう…?」
「何を言ってるんだい。お前は何故生きている?ワタシャそう訊ねてるんだよ」
娘は唇を噛んで俯いた。老女は更に問い詰める。
「まさか、忘れたとは言わせないよ?我ら“星門”の民は、勅命に生き勅命に死ぬが定め…仕えるべき皇帝なき今も掟に変わりはない。“裁定者”が生きている以上、お前が生きている筈がないんだ。だが、お前は生きている…どういうことなんだね?」
娘は答えない…答える意味がないと、知っているからだ。
「囲われて、のうのうと生き延びたってワケかい?仲間を見捨ててねぇ」
娘はやはり答えなかった…が、僅かに上げた視線には殺気が篭っている。老女は嘲笑った。
「何だ、まだ生きてるんじゃないか。その目だよ!そうでなきゃ、ワタシの育てた娘なら」
「何を仰りたいんです?」
漸く、娘が口を開いた。老女は満足げに頷く。
「取引をしようじゃないか?」
「取引…」
「実はねぇ…ワタシャ、今、碌々動けやしない体でね」
「それは、“裁定者”に?」
「いいや…あの男は、もう少しで捕らえられるところだったんだがね。相棒の陰陽使いにしてやられたのさ、そりゃもう手酷くね」
「陰陽使い…?妙ですわ、“裁定者”には連れなどおりませんのに…」
「お前にも知らないことはあるのかい?…まぁ、それはいいとして、だ」
老女は一呼吸置いてから続ける。
「ここへ飛ぶだけでも随分骨だったが…お前に逢えたのは幸運だった。朱雀や、ワタシの代わりに“裁定者”を捕らえておくれ」
「な…」
「時が満ちたんだよ。お前は今まで、“裁定者”の隙を探していた…そうだろう?」
娘―朱雀の言葉を遮って、老女は口の端を吊り上げる。
「条件は命あること、他は好きにして良いそうだ」
「馬鹿馬鹿しい…!」
「…もし受けてくれるなら、“星門”に戻れるよう…いや、ワタシの後継者として迎えようじゃないか。だが、万が一にも断ろうなんて気を起こしたら…」
悪寒を覚えるのと、体が動くのと、同時だった。朱雀の放った手刀に、老女の首が飛ぶ…朱雀の表情は変わらない。重い音を立てて床に倒れたのは、首のない彫像だった。
「もう1度だけ忠告しておくよ。断るなら、今のお前の樣を、首領に報告するまでさ。お前は狙われる…それとも、“裁定者”が守ってくれるのかね?どちらにしても、結果は誰よりお前が知っている筈…よくよく考えてお決め」
首人形は嫌らしい笑みを浮かべ、そのまま魂を失った。ヴン…と虫の羽音が聞こえたが、すぐに紛れて消える。朱雀は肩を落とした…
「死ぬか…生きるか…」
重い脚を引き摺って、屋上へ戻る。過去を捨て去ったつもりでも、過去は忘れてくれないのだ…彼女を。朱雀は分厚い星読み帖を捲り、自分の項を開く。3ヶ月前の流星夜の行を指で追い…
「破滅…か…」
この街で築き上げてきた全て、漸く手に入れた、普通の娘としての暮らし…《沼》に身を置く以上、それは普通ではなかったかもしれない。それでも…朱雀にとっては、掛替えのない時間だった。朱雀は更にページを繰る…『延喜=琉楊果子』の名の記された場所まで。そこに所狭しと書き込まれた文字をなぞり、やがて朱雀は呟いた。
「さよなら…」
押し殺した声…彼女は遂に、決断を下した。
東人街は、そんな夜の放浪者たちにとって恰好の遊び場である。しかし、門から程近い茶店は別…この店の主は、夜の帳とともに暖簾を下げてしまう。《沼》の娘たちの溜り場は、酔客に扉を開かない…何故なら、夜こそが店主の仕事時であるからだ。
さて、東人街の賑わいも高まる時刻、件の茶店の戸を叩く者があった。聞きつけて屋上から駆け下りてきた娘…即ち店主は、戸口へ向かいながら呼び掛ける。
「ゴメンなさいね~、店、もう閉めたヨ。何か御用アルカ?」
…返事はない。不可解に思いながら、娘は掛け金を外し、扉を開けた。そこには、小柄な老女が杖に縋って立っていた。乾ききった肌は枯れ木でもあるように、顔面を縦横に走る皺に目も埋もれている。痩せ細った木彫りの像の如き老女に、しかし、娘は驚愕と怖気に立ち尽くした。老女がゆっくりと顔を上げる。
「夜分にすまないね。入れてもらって構わないかね?」
老女は彩華語でそう言った。娘は黙って頷き、老女を招き入れた。店へ入るなり、老女は尋ねもせずに椅子に掛ける。そして厨房へ向かう娘を呼び止める。
「あぁ、いいよ。ワタシャ客じゃないんだ」
「でも…」
「いいから、お掛け」
会話は全て彩華語で交わされる。娘が向かいの席に座ると、老女は切り出した。
「“裁定者”に逢ったんだ」
「え…?」
「驚いたよ、あの男の星宮でお前を見た時は。まさかとは思ったが…本当だったんだねぇ」
「それ…どういう…?」
「何を言ってるんだい。お前は何故生きている?ワタシャそう訊ねてるんだよ」
娘は唇を噛んで俯いた。老女は更に問い詰める。
「まさか、忘れたとは言わせないよ?我ら“星門”の民は、勅命に生き勅命に死ぬが定め…仕えるべき皇帝なき今も掟に変わりはない。“裁定者”が生きている以上、お前が生きている筈がないんだ。だが、お前は生きている…どういうことなんだね?」
娘は答えない…答える意味がないと、知っているからだ。
「囲われて、のうのうと生き延びたってワケかい?仲間を見捨ててねぇ」
娘はやはり答えなかった…が、僅かに上げた視線には殺気が篭っている。老女は嘲笑った。
「何だ、まだ生きてるんじゃないか。その目だよ!そうでなきゃ、ワタシの育てた娘なら」
「何を仰りたいんです?」
漸く、娘が口を開いた。老女は満足げに頷く。
「取引をしようじゃないか?」
「取引…」
「実はねぇ…ワタシャ、今、碌々動けやしない体でね」
「それは、“裁定者”に?」
「いいや…あの男は、もう少しで捕らえられるところだったんだがね。相棒の陰陽使いにしてやられたのさ、そりゃもう手酷くね」
「陰陽使い…?妙ですわ、“裁定者”には連れなどおりませんのに…」
「お前にも知らないことはあるのかい?…まぁ、それはいいとして、だ」
老女は一呼吸置いてから続ける。
「ここへ飛ぶだけでも随分骨だったが…お前に逢えたのは幸運だった。朱雀や、ワタシの代わりに“裁定者”を捕らえておくれ」
「な…」
「時が満ちたんだよ。お前は今まで、“裁定者”の隙を探していた…そうだろう?」
娘―朱雀の言葉を遮って、老女は口の端を吊り上げる。
「条件は命あること、他は好きにして良いそうだ」
「馬鹿馬鹿しい…!」
「…もし受けてくれるなら、“星門”に戻れるよう…いや、ワタシの後継者として迎えようじゃないか。だが、万が一にも断ろうなんて気を起こしたら…」
悪寒を覚えるのと、体が動くのと、同時だった。朱雀の放った手刀に、老女の首が飛ぶ…朱雀の表情は変わらない。重い音を立てて床に倒れたのは、首のない彫像だった。
「もう1度だけ忠告しておくよ。断るなら、今のお前の樣を、首領に報告するまでさ。お前は狙われる…それとも、“裁定者”が守ってくれるのかね?どちらにしても、結果は誰よりお前が知っている筈…よくよく考えてお決め」
首人形は嫌らしい笑みを浮かべ、そのまま魂を失った。ヴン…と虫の羽音が聞こえたが、すぐに紛れて消える。朱雀は肩を落とした…
「死ぬか…生きるか…」
重い脚を引き摺って、屋上へ戻る。過去を捨て去ったつもりでも、過去は忘れてくれないのだ…彼女を。朱雀は分厚い星読み帖を捲り、自分の項を開く。3ヶ月前の流星夜の行を指で追い…
「破滅…か…」
この街で築き上げてきた全て、漸く手に入れた、普通の娘としての暮らし…《沼》に身を置く以上、それは普通ではなかったかもしれない。それでも…朱雀にとっては、掛替えのない時間だった。朱雀は更にページを繰る…『延喜=琉楊果子』の名の記された場所まで。そこに所狭しと書き込まれた文字をなぞり、やがて朱雀は呟いた。
「さよなら…」
押し殺した声…彼女は遂に、決断を下した。
更新日:2023-04-08 17:00:13