- 205 / 341 ページ
潭月の流客
アルカディア半島を抜けて、西へ向かう道すがら…公道から幾分山際へと逸れた道で、エンキはふと脚を止めた。行く先を塞ぐ影1つ…辺りを見回せど、他に人の姿はない。
「俺に…用か?」
訊ねてはみるが、対手に通じているとは思っていなかった。それは、人間ではない。犬か?…それにしては、前脚が長過ぎるし、頭も小さい。猿だろうか?それにしても、体が大き過ぎる。漆黒の獣は牙を剥き、白濁した瞳でエンキを睨んでいる。
「…斬られたいのか?」
我知らず訊ねた時、エンキの手は既に背の剣の柄を握っていた。
アカデメイアを発って既に半月…この間、エンキを悩ませているものがある。それは、病にも似た業苦であった。発症したのはアルカディアのとある宿場町…アカデメイアより3日目の夜、酒場で起きた喧嘩…というより、荒くれ者が旅人に難癖をつけたことが切欠だった。普段のエンキであれば、見流したであろう。ここで止め立てしたところで、何の解決にもならない。下手に手を出せば騒ぎは大きくなるし、荒くれを叩き潰したところで次の芽が出るだけ…旅人は、運が悪かったのだ。しかし…荒くれが旅人を店から連れ出した時、エンキは席を立った。酒客の視線が、エンキに集まった…不安と、期待。その時、我に帰った…エンキは、荒くれ者を斬るつもりだったのだ。その脚を客室へと向けたのは我ながらよく堪えたものだと思う…それ以来、街に宿を取る事はやめたが、エンキは尚も焦燥に身悶える夜を繰り返している。
こういう経験は、初めてではない。寧ろ、ここ最近は治まっていたというだけで、以前から度々あったことだ。“ラマズス”の欲求を抑えられなくなる。一度覚えてしまえば、後は熱情に浮かされるだけ。時折、自問する…何故これまで抑えていられたのだろう?自らの宿痾を、忘れてしまえるほどに…
黒獣が甲高く吼く…エンキは舌打ちし、剣を抜いた。これは、血の渇望ではない。獣の呼声に応えて来た者は、人ならぬ人の想い…邪念だ。
「使役魔…か」
球形に揺蕩う邪念に囲まれ、エンキは黒獣を見据える…彼こそは、斬るべき者。なのに、湧き上がる歓喜に怖気が立つ。心の底で、斬れる事を喜んでいる己に。胸の奥が、淀んでいく…
獣が一息に啼くや、邪念の球が糸を吐き出す。エンキは剣を振るう…が、幾多の球から張巡らされる無数の糸を、断ち尽くせる筈がない。左腕を翳し、敢えて絡め取らせる。と、見る間に球体から枝が伸び、地上に下りる…エンキを捉えるものは、蜘蛛の群れだった。
(しまったな…)
エンキは溜息を吐いた…糸の粘性は強く、予想以上に強靭だった。それが束になって巻き付いているのだから、容易くは引き千切れない。尚且つ、剣までもが断ち切った筈の糸に捕らわれていた。獣が軋り声を上げるまでもなく、蜘蛛は囲いを狭めくる。一切の抵抗を見せず、エンキは立ち尽くす。目を伏せ、呼吸を整える…自らの気を、内面に押し留める。ある一線を越えた時、蜘蛛たちはエンキに襲い掛かった。
「“払”」
エンキは吐息に気を籠める。瞬発的に開放された気に、糸が弾け跳ぶ。蜘蛛が消え散る。一時的に解き放った気を一定の空間に循環させた後に、エンキは再度気合を込めた。
「“浄”!」
涼風にも似た流れが、蜘蛛の群を撃破する。それでもしぶとく生き残った数体を斬断し、先へ視線を投げる…が、黒獣は、既に逃げ去った後だった。
「まだまだだな…油断し過ぎだ」
呟くと、エンキは剣を鞘に収めた。そして、邪魔者の消えた道を進む…ふと挿した陽光に眩んだ時、己の心境に眉を顰める。常であれば、許されざる油断や迷いに自責に駆られている筈だ。なのに…何故、これ程穏やかであれるのだろう?思わず背後を振り返る。今や、空虚となったその場所を…
「俺に…用か?」
訊ねてはみるが、対手に通じているとは思っていなかった。それは、人間ではない。犬か?…それにしては、前脚が長過ぎるし、頭も小さい。猿だろうか?それにしても、体が大き過ぎる。漆黒の獣は牙を剥き、白濁した瞳でエンキを睨んでいる。
「…斬られたいのか?」
我知らず訊ねた時、エンキの手は既に背の剣の柄を握っていた。
アカデメイアを発って既に半月…この間、エンキを悩ませているものがある。それは、病にも似た業苦であった。発症したのはアルカディアのとある宿場町…アカデメイアより3日目の夜、酒場で起きた喧嘩…というより、荒くれ者が旅人に難癖をつけたことが切欠だった。普段のエンキであれば、見流したであろう。ここで止め立てしたところで、何の解決にもならない。下手に手を出せば騒ぎは大きくなるし、荒くれを叩き潰したところで次の芽が出るだけ…旅人は、運が悪かったのだ。しかし…荒くれが旅人を店から連れ出した時、エンキは席を立った。酒客の視線が、エンキに集まった…不安と、期待。その時、我に帰った…エンキは、荒くれ者を斬るつもりだったのだ。その脚を客室へと向けたのは我ながらよく堪えたものだと思う…それ以来、街に宿を取る事はやめたが、エンキは尚も焦燥に身悶える夜を繰り返している。
こういう経験は、初めてではない。寧ろ、ここ最近は治まっていたというだけで、以前から度々あったことだ。“ラマズス”の欲求を抑えられなくなる。一度覚えてしまえば、後は熱情に浮かされるだけ。時折、自問する…何故これまで抑えていられたのだろう?自らの宿痾を、忘れてしまえるほどに…
黒獣が甲高く吼く…エンキは舌打ちし、剣を抜いた。これは、血の渇望ではない。獣の呼声に応えて来た者は、人ならぬ人の想い…邪念だ。
「使役魔…か」
球形に揺蕩う邪念に囲まれ、エンキは黒獣を見据える…彼こそは、斬るべき者。なのに、湧き上がる歓喜に怖気が立つ。心の底で、斬れる事を喜んでいる己に。胸の奥が、淀んでいく…
獣が一息に啼くや、邪念の球が糸を吐き出す。エンキは剣を振るう…が、幾多の球から張巡らされる無数の糸を、断ち尽くせる筈がない。左腕を翳し、敢えて絡め取らせる。と、見る間に球体から枝が伸び、地上に下りる…エンキを捉えるものは、蜘蛛の群れだった。
(しまったな…)
エンキは溜息を吐いた…糸の粘性は強く、予想以上に強靭だった。それが束になって巻き付いているのだから、容易くは引き千切れない。尚且つ、剣までもが断ち切った筈の糸に捕らわれていた。獣が軋り声を上げるまでもなく、蜘蛛は囲いを狭めくる。一切の抵抗を見せず、エンキは立ち尽くす。目を伏せ、呼吸を整える…自らの気を、内面に押し留める。ある一線を越えた時、蜘蛛たちはエンキに襲い掛かった。
「“払”」
エンキは吐息に気を籠める。瞬発的に開放された気に、糸が弾け跳ぶ。蜘蛛が消え散る。一時的に解き放った気を一定の空間に循環させた後に、エンキは再度気合を込めた。
「“浄”!」
涼風にも似た流れが、蜘蛛の群を撃破する。それでもしぶとく生き残った数体を斬断し、先へ視線を投げる…が、黒獣は、既に逃げ去った後だった。
「まだまだだな…油断し過ぎだ」
呟くと、エンキは剣を鞘に収めた。そして、邪魔者の消えた道を進む…ふと挿した陽光に眩んだ時、己の心境に眉を顰める。常であれば、許されざる油断や迷いに自責に駆られている筈だ。なのに…何故、これ程穏やかであれるのだろう?思わず背後を振り返る。今や、空虚となったその場所を…
更新日:2023-02-18 21:02:35