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惑乱の仮面

アルカディア半島の東端の街アカデメイアは、王国随一の学術都市として栄えている。細密に分かたれた研究機関が存在し、幾多の大学が立ち並ぶ…西世界の知識の全てを包含するというのも、強ち誇張ではない。

工学院の建築家の手に成る大学は悉く壮麗な外観を並べ、各々学術分野の特徴を的確に表す設計は見事という他にない。故に、観光地としても人気が高い。中でも「神々の離宮」と異称される芸術院を筆頭に、知識の最高峰を示す国立大学の至高塔、世界最大の蔵書を孕む白亜の図書院は、学徒ならずとも生涯に1度は訪ねたいという聖地にも似た場所だ。

そして隣の港湾都市マラスとの境には、広大な敷地を持つ国立大学に引けを取らぬ威容を誇る王国軍駐屯地…「文明をやっかんだ猿仕事」と、アルカディア人からは大変な不評を買ったこの建物も、今や900年の歴史の主である。何故この場所にアルカディア最大の駐屯地があるのか…それは、不幸な過去の産物としか言い様がない。つまり、王国に併合された当初、この地では思想犯の取締りが行われ、多くの哲学者が嫌疑を掛けられて都に拘引されたのである。現在も危険思想への監視は続いているが、しかし、この建物には今もう1つの機能が認められている…兵営が、受講者に対し国営の宿泊施設として解放され、国家的な文化水準の向上に貢献しているのだ。利用条件は王国認可の大学の学生、或いは王国の市民権を有すること、期間は各大学または王国軍よりの認定期間に準ずる。国家の高官の場合、軍本部に近い場所に宿舎を用意の上、衛兵が付く…本人の意向には関らず。

さて、この軍本部間近の宿舎に今、1人の男が立ち入ろうとしていた。艶のある伽羅の肌に錆色の髪、平服にも拘らず堅苦しい印象を与える。年の頃は30過ぎ、年齢不相応に厳格な面持ちが彼の気質を物語る…男に気づいた衛兵が、敬礼した。

「お疲れ様です!…お早いお帰りですね」

若い衛兵の口から、つい本音が出てしまう。男は踵を合わせて立ち止まり、衛兵を見向く。

「ご苦労。職務は迅速、且つ忠実に行うが基本。余計な詮索など論外だ」
「はっ、失礼しました!」

眉一つ動かさずに下された簡潔な回答兼叱責に、衛兵は背筋を伸ばす…男は敬礼を返し、屋内に入った。その背が見えなくなった頃、衛兵は堪えきれぬように震えた。

「か…カッコいい…!」

その面に、感動が沸き上がる。何せ、普段ならば口を利くことも叶わぬような高官からの言葉だ。改めて、彼は姿勢を正した。

そして四半時程過ぎた頃…同じ宿舎の前に、また1人の男が立ち入る。衛兵は止め掛け、その人物の面貌に愕然とした。

「お勤めご苦労。なかなか忠実な働き振りだ」
「はっ!」

敬礼しながらも、衛兵は道を譲るに譲れない。男は眉を潜めた。

「勤勉は結構だが…私が解らんのか?」
「いえっ、断じてそのような…」

衛兵は慌てて脇へ退いた。男は敬礼を返し、屋内に入った。その背が見えなくなった頃…後を追うように、文書を小脇に抱えた神官が駆けて来た。ずり落ちそうな眼鏡の下でも、ぱっちりと大きな瞳が印象的な、それと言われなければ戦闘神官とは判らない小柄な女性である。茫然としている衛兵に、神官は小首を傾げた。

「あれぇ?ダグ君、どうしたの?豆が鳩鉄砲喰らったみたいな顔しちゃって」
「ハトデッポウ!?…あ、いや…お疲れ様です、ミリア神官!」
「あ、間違えた!!…で、どうしたの?」
「いえ…その…自分、夢でも見たようで…あの、ちょっと聞いてもらっていいっすか?」

気さくなミリアを前に、衛兵は思わず位階の差も忘れて訊ねる。ミリアの方も、あっさり首肯した。

「何かあったの?」
「それが…自分、先刻ユリウス様がお帰りになったと、何故か思い込んじゃってまして…大変な無礼を働いてしまったんです。確かに自分、警護を仰せつかって有頂天だったってのは認めますけど、確かにユリウス様は憧れの御方ですけど…そんな片時も離れたくないなんて…そんなつもりは…ミリアさん、自分、病気なんでしょうか?」
「あ~?」

衛兵の告白に、ぽかんと口を開けたミリアは、暫し経ってから大きく頷いた。

「あ~、デュオ君、来てたんだぁ」
「は?誰ですか?」
「うん、大丈夫だよ。ダグ君、びっくりしたでしょう?ユーリには、私からちゃんと事情話してあげるから、心配しないでね」
「は?…あ、ありがとうございます…??」
「うん、うん」

衛兵の肩を気楽に叩いたかと思うや、その腕を掴んでミリアは宿舎に駆け込んだ。事情が飲み込めぬまま引き摺られ、衛兵は絶望的なまでに落ち込んで行った。

(この人の言葉が解らないなんて…俺…やっぱりヤバい病気なんだろうか…)

更新日:2023-02-11 17:43:10

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