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アルカディアの北方、陰鬱なる森に蔽われた王国の縁涯…その国境の都市シルミウム。大河に囲まれた要所であるこの街を賑わすは、兵士、傭兵、商人ら…そしてスパイ。栄えるほどに緊張は高まる…そこに芽生えるのは、頽廃的な空気だ。

東方の後宮を模した、絢爛且つ安っぽい酒場の大卓で、商談が進んでいた。卓上には、数々の珍品奇品が並んでいる。

「おぅおぅ、狂戦士の毛皮が5枚に、多頭蛇の眼球が9頭分、それに、食屍鬼の胆石が…銀50枚分ですか。いやぁ、相変わらず良いお仕事をなさる」
「ありがと…でも、私の仕事じゃないわ」

でっぷりと肥えた髭の商人の称賛に、相手の女は然も面倒そうに答える。腰を据えて以来、鬱陶しいほどに浴びせ掛けられる讃美と羨望の視線…濡羽色の長い髪に真珠の肌、鮮紅の唇…その全てが、禍々しいまでに妖艶である。憂鬱に伏せられた顔は、王国統一を為した名将キサリウスを零落したという伝説のウシル王朝最後の女王の美容と、恐ろしいまでに合致する。その身は、面貌を除き、指先まで漆黒に覆われている…鞣革の着衣は鎧さえも連想させる代物であるが、締め上げるほどに密着したそれが却って体形を際立たせる為か、それとも、肌の一部とさえ見紛うほどに馴染み過ぎている為か、裸身を晒しているような錯覚を受ける。引き締まった腰には黒繻子を巻きつけているが、その合わせ目から覗く脚までも闇色に染まっているのは、何を意味するものだろうか?…兎も角、男どもは色香に迷い、女たちは玉石の差に悶える、その異種の渇望には気も向けず、美女は小袋を一つ、商人に手渡す。

「魔法石は、これしか出来なかったわ。時間がなかったの」
「…!いえ…これだけ戴ければ充分ですよ。この短い間に…」
「上客だもの…あなたは、特別よ」

意味深長な笑みを浮かべる。陶然とした商人は、自分が有金全てを美女に渡してしまったことに、果たして気づいていただろうか…その醜い後姿が人込に消えると、美女は財布を仕舞い、杯を呷った。

「…狂戦士の毛皮ですか。実在するなら拝見したいものですが…」

すぐ後の座席からの声…美女は振り返りもせずに応える。

「お互い、承知の上での取引よ」
「悪い商売だ。買い手には、それを知る術はありません」
「…それもそうね。以後、改めるわ」

狂戦士とは「熊皮を着た者」を示す古語に由来する…古代、荒熊の御魂を下ろして戦ったという憑依戦士を現す語で、熊皮はその依り代を意味する。つまり、彼女が商人に渡したのは、熊の毛皮…その品質は、真の狂戦士が纏った物以上に上等と保証できる。だが、忠告者の言う通り、商人からそれを買い受ける者は、その事実を知らない。美女は手酌で葡萄酒を杯に注ぐ。

「私に御用かしら?」
「…お気づきでしたか」
「貴方がそこへ掛けた時からね」

商談の最中に座を占めたこの男が、こちらの様子を窺っていたのは、最初から判っていた。無論、新たな商談などではあるまい。

「話なら、聞くわ。こっちへいらっしゃい」
「いえ、遠慮します。貴女の信者たちに殺されたくはありませんから」

その二重の意味を、男は理解して使っている。つまり、彼女が何者かを知った上で、声を掛けてきたのだ…それも、予想していたこと。だが、美女は微かに男を振り返った。何の変哲もない、渡り商人の姿…しかし、腰掛けた姿勢に隙がなさ過ぎる。

「じゃあ、このままで」
「有り難い。なに、ちょっとした取引ですよ」
「へぇ…意外だわ」
「ある男との交渉を、お取次ぎ願いたいのです」

美女は杯に口を付ける。含んだ芳香を甘楽する間もなく嚥下し、唇を開いた。

「私の知っている男性かしら」
「そこまでは…」
「…消して欲しいの?」
「いえ。我々への協力を仰いで頂きたい…それだけです」
「そう」

美女は、酒盃を嘗め尽くした。その挙句に息を吐いて男へと向き直る。

「お断りするわ。それは、私に任せるべき仕事じゃない…解るでしょう?」
「残念です」

男は顔も上げずに杯を傾ける。美女は立ち上がり、酒壷を男の卓に置いた。と、その手を男が掴もうとする。美女は慌てて手を引く。

「触らないで…!」
「…是非とも、御一考下さい。それが、お互いの為です」

震える手を隠すように、美女は拳を固めた。悲鳴じみた声に、周囲の客がざわめき出す。呼吸を整え、美女は頷いた。

「いいわ、考えておきましょう…でも、期待はしないで」
「それでは…」
「悪いけど、後にして頂戴。人と逢う都合があるの」
「ほぅ…意外ですね」

男はゆっくりと顔を上げる。狡猾そうな壮年の男だ…が、見知った顔ではない。

「御予定がおありでしたか。お引止めして申し訳ない」
「気にしなくていいのよ、今決めたんだから」

美女は皮肉に笑う。男も口角を上げた。

「解りました。では…次に会う時は、好いお返事が頂けるものと、楽しみにしております」

更新日:2023-02-04 21:40:35

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