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「元田中」駅 E02

挿絵 610*456

 叡電が走る左京区一帯は、京都市に編入される明治時代の半ばまでは「愛宕(おたぎ)郡」の下にあった。元田中は愛宕郡田中村であり、修学院は愛宕郡修学院村、岩倉も愛宕郡岩倉村のように。不思議に思い調べようとは思っているのだが、京都市の西にある愛宕山は「あたご」山と読み、同じ漢字なのにどうして「おたぎ」郡と読むのだろう。そういえば愛宕山の麓に「愛宕念仏寺」があるが、これは「おたぎ」念仏寺と読む。
 ググってみた。百科事典なんかがなくてもキー操作ひとつで調べることができるのはありがたい。でも、明確な答えは得られなかった。総合して思うには、西の愛宕山麓一帯(化野・あだしの)も、東の清水寺がある鳥辺野(愛宕郡に含まれていた)も古代から葬送の地であった。蓮台野(紫野)と併せて京都の三大葬送地である。「おたぎ」にも「あたご」にもその意味合いが含まれており、「おたぎ」の言葉の方がやや古いらしい。それがやがて「あたご」の音に変化したというのだ。愛宕山が「おたぎやま」と呼ばれたこともあったそうな。漢字は後付けで、於多木なんかの表記もかつてはみられる。明治の郡域では、愛宕山のある嵯峨野一帯は葛野(かどの)郡に入るから愛宕山の存在との直接の関連性は低い。共に葬送の地をもつ東と西で、地名としての呼び名が「おたぎ」「あたご」になったのだろうか。確としたことは不明だが、面白い。


更新日:2022-11-02 21:46:01

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