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永禄11年の乱

 戦国時代最強の武将は誰かと聞かれて必ずあがるのが武田信玄や上杉謙信だが、ここにもう一人、どうしても外せない人物がいる。上杉謙信は天正6年(1578)3月、49年の生涯を終えて春日山城の不識院内に埋葬されるまで、およそ70度の合戦に出陣し、敗れたのは僅か3度ともいわれる。
 天文22年(1553)頃からその謙信(当時の名は長尾景虎)に仕えたその武将は、永禄11年に上杉家に叛旗を翻す。巷間では謙信が勝利したことになっているが、そうともいい切れない節もあるので紹介したいと思う。男の名を本庄繁長という。

 本庄繁長は同じ上杉家の重臣で南蒲原郡高城城の城主・長尾藤景を討った後、越後岩船郡小泉庄の本庄城(新潟県村上市)に籠って戦うことになるのだが、これを『北越軍談』などでは永禄11年(1568年)4月のこととしている。しかし『『越後野志』等によると藤景の死を永禄8年のこととしており、疑問が生じざるを得ない。なぜなら謙信は永禄9年に下総印旛郡の臼井城を攻めており、はからずも繁長はこの戦いに参加しているからだ。(上杉家御年譜では永禄6年、小田原北条記では永禄7年など異説もあり)
 
 臼井城の戦いについては複数の似たような記録が残っているが、『関八州古戦録』を読むと、この戦いでは予想に反して上杉勢が終始劣勢にたたされるものの、繁長は敵の主力であった蔭山新四郎と橋本伝左衛門を打破るなど一人気を吐いている。

 また繁長は軍使・海野隼人正(おそらく正しくは軍師・宇野高逍軒、名は則忠、好松軒とも)と二人で謙信に対し、臼井城で指揮を執る白井善道(胤治)の策を看破し、注意を促している。長尾藤景がこの合戦に参加したかどうかは不明だが、ここでは謙信と繁長の確執など微塵も感じられない。

 その2年後の永禄11年、繁長は突如上杉家に叛旗を翻す。時系列でいえば、長尾藤景の死後に繁長が反乱をおこしていることに間違いはないのだが、彼の死が反乱の直接的な引き金になっているとは考えにくい。原因がなんであれ、繁長は侵攻してくる上杉軍に対して荒川右岸を防衛ラインとして戦闘を始めた。当初の予想では大軍を擁する上杉軍の圧勝と思われたこの戦いは、本庄方の徹底抗戦によって年をまたぎ、翌年の3月ぐらいまで続く。繁長は甲斐の武田信玄や相模の北条氏照らに支援を仰いだ。
 上杉側の記録では、繁長が降伏して息子を人質として差し出したことになっているが、どうもそうではないらしい。
 この時、繁長は上杉軍の猛攻を凌いだため、城も陥落した様子がない。つまり、謙信は本庄氏の領地を併合することができず、その後数年間は睨み合いの状態が続いたようなのだ。

 一旦は繁長が勝利したこの戦い。では、その後どのような経過をたどったのだろうか。それを窺い知ることができる逸話が『奥羽永慶軍記』に綴られている。

更新日:2022-11-23 08:57:15

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