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高橋是清

挿絵 600*600

高橋 是清は、明治から昭和にかけての日本の財政家、日本銀行総裁、政治家である。大蔵大臣・第20代内閣総理大臣を歴任したが、二・二六事件で暗殺された。

1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。

横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。
1868年(明治元年)、帰国。帰国後の1873年(明治6年)にサンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、英語の教師もこなした。
文部省、農商務省の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。

その後、軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅で反乱軍の青年将校ら銃撃されて暗殺された。享年83。
日本政府の財政を立て直した立役者であった。

更新日:2022-09-14 19:30:38

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