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第三章 睡眠薬
1
土井昭(どいあきら)は、警察署の椅子でうなだれていた。明日からは、ひさしぶりの休暇だった。温泉にでも行ってのんびりするつもりだったのに・・・・。
坂口孝明のマネージャーになって四年。最後の最後まで振り回され通しだった。
携帯電話で連絡を受け現場へ急行したが、既にマスコミが嗅ぎつけており、顔をだせる状況ではない。仕方なく、こうして警察署で待つことになったのだ。
一階にある交通課の待合室、半分ほど電気の消えたうす暗いフロアに、土井は一人腰を下ろしていた。タバコを吸いたかったが、署内は禁煙であった。
管轄内事件が起きているのに、驚くほど静かだった。
坂口孝明が死んだ。まだ、実感が湧かない。
二日に及ぶ収録が終わったものの、スケジュールは詰まっていた。今日の昼には、テレビ局の打つ合わせがあるので迎えに行く。そう伝えたとき、坂口は不機嫌そうにうなずいた。それが彼を見た最後となった。
坂口の死はワイドショーなど大々的に報じられるだろう。全盛期には及ばないとしても、映画、テレビなどの露出は増えている。バラエティー番組のコメンティーターにも声もかかり始めたというのに・・・・。
「土井さんですか?」
突然声をかけられ、土井は咳こんだ。いつの間に近づいてきたのか、男が立っている。
「驚かせて申し訳ない」
「い、いや、いいんです」
「こんな場所で待たせてしまってすみません。退屈だったでしょう」
「退屈ってことはないんですが」
「坂口孝明さんについて、いくつかおききしたいのですが。構いませんか?」
「それで、坂口は、坂口はどうなったんですか?死んだと言う事だけで、何も説明してもらえないもので」
「お気の毒です。一酸化炭素中毒による窒息死と思われます。原因は排気ガスです」
「排気ガス?」
「車のエンジンがかかったままになっていました。排気ガスが家中に充満して・・・・」
「言わんこっちゃない」
土井は拳で膝を叩いた。
「それはどういうことです?」
「は?」
「言わんこっちゃない。あなたはこうなる危険性を前から感じてた・」
土井は混乱した。
「私、伊藤と申します。この事件の責任者です」
と、警察手帳を提示した。
「これは失礼しました。刑事さんとは思わなかったもんで」
伊藤は土井の隣に座り、手帳をぱらぱら捲った。
「坂口さんは、以前にも車のエンジンを切り忘れたことが?」
「ええ、私の知る限りでは一度。そのときは、ちょっとした騒ぎになっただけですが、彼は何かに没頭すると、周りが見えなくなるタイプでした。新しい台本を受け取ったときなどは、話しかけても返事をしない。電話が鳴っているのにも気づかない。そんな調子で」
「坂口さんは、睡眠薬を常用していました?」
「はい。一年ほど前からです。むろん、医師から処方されたものです」
「昨日のスケジュールはどうなっていましたか?」
「一昨日から埼玉で収録がありまして、日程が押していて、収録も強行軍でした。一昨日は早朝から日暮れまで撮り続け、昨日も朝一番で現地入りしました。実質、ほとんど寝てません」
「なるほど、現場まで、坂口さんは自分の車で行かれたわけですね」
「運転は私がしました」
伊藤がはたと頭を上げる。
「すると昨日帰宅するときも、あなたが運転を?」
「いえ、坂口とは現場で別れました。運転していくからと言ったのですが、どうしても、一人で帰ると・・・・」
土井は肩をしぼめ、ため息をついた。
「無理にでも送っていくべきでした・・・・」
「昨日だけ一人で帰りたがった。何か理由があったのでしょうか?
「さあ」
「その親指はどうされたのですか?」
ふいに話題が飛んだ。土井は右手親指に巻かれた包帯を見る。
「これですか。ちょっと火傷をしまして」
「坂口さんのところで?」
まるで千里眼だ。
「ガスライターやられました。すごい勢いで火が出るんです。よく判りましたね」
「坂口さんの親指にも、火傷の痕がありましたので、問題のライターは、いま鑑識が調べています。課員の一人が同じところに火傷しましてね」
「坂口は、そういうところが大雑把でしたからね。彼は調理師の免許を持っているくらいですから、きちんとやれば人並み以上にできるのに」
「彼は料理をした?」
「最近は、忙しかったから、ほとんど外食だったと思います。ですが少し前、料理番組をしていましてね。もともと興味があったらしく、いろいろ作っていましたよ」
「土井さんは、いつから彼のマネージャーを」
「四年ほどまえからです」
土井昭(どいあきら)は、警察署の椅子でうなだれていた。明日からは、ひさしぶりの休暇だった。温泉にでも行ってのんびりするつもりだったのに・・・・。
坂口孝明のマネージャーになって四年。最後の最後まで振り回され通しだった。
携帯電話で連絡を受け現場へ急行したが、既にマスコミが嗅ぎつけており、顔をだせる状況ではない。仕方なく、こうして警察署で待つことになったのだ。
一階にある交通課の待合室、半分ほど電気の消えたうす暗いフロアに、土井は一人腰を下ろしていた。タバコを吸いたかったが、署内は禁煙であった。
管轄内事件が起きているのに、驚くほど静かだった。
坂口孝明が死んだ。まだ、実感が湧かない。
二日に及ぶ収録が終わったものの、スケジュールは詰まっていた。今日の昼には、テレビ局の打つ合わせがあるので迎えに行く。そう伝えたとき、坂口は不機嫌そうにうなずいた。それが彼を見た最後となった。
坂口の死はワイドショーなど大々的に報じられるだろう。全盛期には及ばないとしても、映画、テレビなどの露出は増えている。バラエティー番組のコメンティーターにも声もかかり始めたというのに・・・・。
「土井さんですか?」
突然声をかけられ、土井は咳こんだ。いつの間に近づいてきたのか、男が立っている。
「驚かせて申し訳ない」
「い、いや、いいんです」
「こんな場所で待たせてしまってすみません。退屈だったでしょう」
「退屈ってことはないんですが」
「坂口孝明さんについて、いくつかおききしたいのですが。構いませんか?」
「それで、坂口は、坂口はどうなったんですか?死んだと言う事だけで、何も説明してもらえないもので」
「お気の毒です。一酸化炭素中毒による窒息死と思われます。原因は排気ガスです」
「排気ガス?」
「車のエンジンがかかったままになっていました。排気ガスが家中に充満して・・・・」
「言わんこっちゃない」
土井は拳で膝を叩いた。
「それはどういうことです?」
「は?」
「言わんこっちゃない。あなたはこうなる危険性を前から感じてた・」
土井は混乱した。
「私、伊藤と申します。この事件の責任者です」
と、警察手帳を提示した。
「これは失礼しました。刑事さんとは思わなかったもんで」
伊藤は土井の隣に座り、手帳をぱらぱら捲った。
「坂口さんは、以前にも車のエンジンを切り忘れたことが?」
「ええ、私の知る限りでは一度。そのときは、ちょっとした騒ぎになっただけですが、彼は何かに没頭すると、周りが見えなくなるタイプでした。新しい台本を受け取ったときなどは、話しかけても返事をしない。電話が鳴っているのにも気づかない。そんな調子で」
「坂口さんは、睡眠薬を常用していました?」
「はい。一年ほど前からです。むろん、医師から処方されたものです」
「昨日のスケジュールはどうなっていましたか?」
「一昨日から埼玉で収録がありまして、日程が押していて、収録も強行軍でした。一昨日は早朝から日暮れまで撮り続け、昨日も朝一番で現地入りしました。実質、ほとんど寝てません」
「なるほど、現場まで、坂口さんは自分の車で行かれたわけですね」
「運転は私がしました」
伊藤がはたと頭を上げる。
「すると昨日帰宅するときも、あなたが運転を?」
「いえ、坂口とは現場で別れました。運転していくからと言ったのですが、どうしても、一人で帰ると・・・・」
土井は肩をしぼめ、ため息をついた。
「無理にでも送っていくべきでした・・・・」
「昨日だけ一人で帰りたがった。何か理由があったのでしょうか?
「さあ」
「その親指はどうされたのですか?」
ふいに話題が飛んだ。土井は右手親指に巻かれた包帯を見る。
「これですか。ちょっと火傷をしまして」
「坂口さんのところで?」
まるで千里眼だ。
「ガスライターやられました。すごい勢いで火が出るんです。よく判りましたね」
「坂口さんの親指にも、火傷の痕がありましたので、問題のライターは、いま鑑識が調べています。課員の一人が同じところに火傷しましてね」
「坂口は、そういうところが大雑把でしたからね。彼は調理師の免許を持っているくらいですから、きちんとやれば人並み以上にできるのに」
「彼は料理をした?」
「最近は、忙しかったから、ほとんど外食だったと思います。ですが少し前、料理番組をしていましてね。もともと興味があったらしく、いろいろ作っていましたよ」
「土井さんは、いつから彼のマネージャーを」
「四年ほどまえからです」
更新日:2022-08-07 10:04:46