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【第一章】幼少期
玉が生まれた寛永四年(一六二七)、朝廷と幕府の関係は紫衣事件でぎくしゃくしていた。
この時代の僧侶にとり、紫衣は最高位の高僧のみの栄誉であり、朝廷の許可なくば袖を通すことは許されなかった。ところが朝廷や寺社に対する圧力を強めていた幕府は、元和元年以降の朝廷による紫衣勅許を全て取り消すよう、時の後水尾天皇に迫った。昨今の寺社の風紀の乱れを正すというのが、その名目だった。
元和元年以降のおよそ八十枚もの紫衣勅許が無効となり、諸山諸寺の混乱はもとより、後水尾天皇もまた幕府に対して憤激することとなった。
この事件からほどなくして朝廷より、幕府との交渉事を担う勅使武家伝奏が、江戸城黒書院に将軍家光をたずねた。
「お役目大儀」
と三代将軍家光は、まず武家伝奏をねぎらった。しかし武家伝奏の三条西実条は中々頭をあげない。この時点で家光は、すでに事がかなりの重要案件であることを予期していた。しかし武家伝奏が家光に伝えた言葉は、家光の想像したよりもさらに重大だった。
「されば帝にあらせられては、昨今、腫物を患っておりまする。針の治療がもっとも効果があると聞いておりまするが、玉体に傷をつけることはかないませぬ。それ故に御退位あそばされて、位を高仁親王に譲位いたしたいとのことでござりまする」
この言葉に、家光をはじめ居並ぶ幕閣の面々も皆顔色を変えた。
高仁親王は後水尾天皇の第二王子にして、母は中宮・和子。和子の父は二代将軍秀忠である。すなわち高仁親王は秀忠の孫であり、そして家光にしても甥ということになる。しかし、まだ生後四か月の赤子であった。
「何故の譲位じゃ、まず理由を申せ」
と家光は爪を噛みながらたずめた。
「されば今申したとおり……」
「それは表向きの理由であろう。誠の理由を申せ」
武家伝奏はしばし沈黙した。
「されば帝にあらせられては昨今、病ゆえの気鬱をまぎらわすため、菊の栽培などあそばされて……」
と武家伝奏は、とりあえず話しを反らそうとした。しかし武家伝奏がすべていい終わらないうちに、さらに家光が厳しい言葉を浴びせる。
「幕府に対する面当てか? そういえば昨今は朝廷内部に和子を密かに害そうとする動きがあるとか、まこと相違ないか?」
「お戯れがすぎまする。かように痛くもない腹をさぐられましても……」
「痛くもない腹じゃと?」
家光は突如として、扇子を地に叩きつけると立ちあがった。
家光は生まれながらに情緒不安定で、その場の空気を読むということが、できない人間であったといわれる。癇癪持ちで、ささいなことでも興奮する。突然の家光に怒りに、勅使武家伝奏は真っ青になった。
「己等、公家衆は常にそうじゃ! そうやって遠回しに人をののしる。この家光が存ぜぬことと思っておるのか! もとを正せば帝の不行跡が招いたこと。皇位さえ譲ればそれですむ問題ではない。幕府を非難する前に、その方等が改めるが筋であろう!」
しかし家光が何故怒りを露わにしたのか、家光の側近くにつかえる小姓には、さっぱりわからなかった。後日、家光にことの子細を聞かされ、あまりのことにふるえあがることとなる。
この時代の僧侶にとり、紫衣は最高位の高僧のみの栄誉であり、朝廷の許可なくば袖を通すことは許されなかった。ところが朝廷や寺社に対する圧力を強めていた幕府は、元和元年以降の朝廷による紫衣勅許を全て取り消すよう、時の後水尾天皇に迫った。昨今の寺社の風紀の乱れを正すというのが、その名目だった。
元和元年以降のおよそ八十枚もの紫衣勅許が無効となり、諸山諸寺の混乱はもとより、後水尾天皇もまた幕府に対して憤激することとなった。
この事件からほどなくして朝廷より、幕府との交渉事を担う勅使武家伝奏が、江戸城黒書院に将軍家光をたずねた。
「お役目大儀」
と三代将軍家光は、まず武家伝奏をねぎらった。しかし武家伝奏の三条西実条は中々頭をあげない。この時点で家光は、すでに事がかなりの重要案件であることを予期していた。しかし武家伝奏が家光に伝えた言葉は、家光の想像したよりもさらに重大だった。
「されば帝にあらせられては、昨今、腫物を患っておりまする。針の治療がもっとも効果があると聞いておりまするが、玉体に傷をつけることはかないませぬ。それ故に御退位あそばされて、位を高仁親王に譲位いたしたいとのことでござりまする」
この言葉に、家光をはじめ居並ぶ幕閣の面々も皆顔色を変えた。
高仁親王は後水尾天皇の第二王子にして、母は中宮・和子。和子の父は二代将軍秀忠である。すなわち高仁親王は秀忠の孫であり、そして家光にしても甥ということになる。しかし、まだ生後四か月の赤子であった。
「何故の譲位じゃ、まず理由を申せ」
と家光は爪を噛みながらたずめた。
「されば今申したとおり……」
「それは表向きの理由であろう。誠の理由を申せ」
武家伝奏はしばし沈黙した。
「されば帝にあらせられては昨今、病ゆえの気鬱をまぎらわすため、菊の栽培などあそばされて……」
と武家伝奏は、とりあえず話しを反らそうとした。しかし武家伝奏がすべていい終わらないうちに、さらに家光が厳しい言葉を浴びせる。
「幕府に対する面当てか? そういえば昨今は朝廷内部に和子を密かに害そうとする動きがあるとか、まこと相違ないか?」
「お戯れがすぎまする。かように痛くもない腹をさぐられましても……」
「痛くもない腹じゃと?」
家光は突如として、扇子を地に叩きつけると立ちあがった。
家光は生まれながらに情緒不安定で、その場の空気を読むということが、できない人間であったといわれる。癇癪持ちで、ささいなことでも興奮する。突然の家光に怒りに、勅使武家伝奏は真っ青になった。
「己等、公家衆は常にそうじゃ! そうやって遠回しに人をののしる。この家光が存ぜぬことと思っておるのか! もとを正せば帝の不行跡が招いたこと。皇位さえ譲ればそれですむ問題ではない。幕府を非難する前に、その方等が改めるが筋であろう!」
しかし家光が何故怒りを露わにしたのか、家光の側近くにつかえる小姓には、さっぱりわからなかった。後日、家光にことの子細を聞かされ、あまりのことにふるえあがることとなる。
更新日:2022-09-17 13:25:56