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【第二章】お手付き中臈・お蘭

 お蘭がついに中臈に出世する頃には、季節は秋にさしかかっていた。蘭は直接将軍に拝謁できるという、お目見え以上の身分になったわけである。
 中臈は、将軍の生活一切の世話係りである。何人かいる中臈の中から、将軍に所望され夜の相手をつとめれば、その者は「お手付き中臈」となる。そして子をもうけてはじめて、側室とよばれるわけである。お万もまた現状では中臈である。蘭は表面上は万と同格になった。
 中臈としての蘭の一日は、目が回るほど忙しい。朝六つ半(午前七時頃)将軍が起床。だいたい八人ほどの中臈が二人一組の交代制で、将軍の食事、入浴、トイレなどの世話をする。将軍の朝食は、御広敷御膳所で十人分つくる。毒味の後九人分が将軍のもとへ運ばれた。朝食は五つ(午前八時)までにすまされた。
 蘭もまた将軍の膳を見た。一の膳と二の膳にわかれ、一の膳には豆腐の出し汁、みそ汁に玉子を落としたもの、昆布の切り身、キスの焼き物などが並べられている。特にキスは、漢字で書くと「鱚」である。魚へんに「喜ぶ」でたいへん縁起がよいとされ、将軍の食膳によくのぼった。
 二の膳には鯛などの焼き魚、玉子焼き、大根の味噌漬け、塩辛などが並んでいた。
 
 昼四つ(午前十時)いよいよ将軍が奥入りし、朝の総触れである。
将軍が中奥から、大奥へと御鈴廊下をわたって姿をあらわす。やかましいほどの鈴が鳴らされ襖が開く。
「上様の御成りー!」
 甲高い声が廊下に響きわたった。蘭は他の中臈、お年寄りたちと共に、平伏した女たちを横目に将軍の背後を歩く。
「これが将軍様か?」
 初めて将軍を目の前で見た時は、予想していたよりも、はるかに非力な印象をうけた。病弱と聞いていたが、確かにあまり健康そうなイメージではない。
 しかし今の蘭には、将軍よりも気になる人物がいた。将軍の背後にぴったりと寄りそって歩く人物。今や将軍の寵愛を一身に受けているという、お万の方だった。
 最初、万を見た時の蘭の印象は衝撃的だった。
「これは到底敵う相手ではない」
 というのが本音だった。
 年齢は蘭より二つほど下と聞いていたが、その歩くたびごとに伝わってくる妖艶さ、気品、気高さは圧倒されそうである。ついこの間まで巨大な風呂敷つつみを背負って、古着の商いをしていた蘭とは、まったく違う世界の存在に思えた。
 特にこの日の万のいで立ちは、元古着屋の蘭をも唸らせるものがあった。
 白綸子の右前すそから袖へかけて、肩から背まで大きく斜めに区切って、紫紺地の匹田絞。その中に直径一尺もある大輪の白菊黄菊の花弁が、四方に走り巻く様子が背から片袖へ、すその前後に、三輪ずつ染めぬかれてあった。
 この思い切ったデザインは、大奥に勤める女性たちの羨望の的となった。多くの女中たちが、万をまねて派手な打掛・小袖を好むようになる。これがまた春日局の癇にさわった。質実剛健、質素倹約こそ春日局の好むところである。華美な衣装の禁止令をだしたため、ここでも万と春日局は対立することとなる。

更新日:2022-11-27 17:31:34

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