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【第二章】謎の浪人山中新三郎

 いろいろと面倒な手続きの後、お蘭がようやく大奥に入ったのは、すでに夏の暑いさかりだった。
 蘭は最初江戸城の壮大さに驚嘆する。次にどうしても古着屋出身の蘭は、大奥女中たちの服装に目がいく。大奥女中たちの夏の服装は、基本は帷子と単衣である。帷子は裏のない麻織物。単衣も裏をつけない絹、あれいは木綿といったところである。
 描かれている文様は例えば茶屋辻。藍色の建物、流水、植物の文様など、いかにも涼し気である。あれいは水草に鯉を描いたものなどもあった。女中たちが歩くたにごとに、まるで本物の鯉が遊泳しているかのようである。
 蘭は大奥にて、最初は春日局の部屋子として行儀作法を学ぶ。次に御三の間へと昇進し、さらに順調なら中臈へと上がることとなっている。
 部屋子として蘭は、春日局の私生活をかいま見ることとなる。春日局自身は、祭礼の時などをのぞいて着飾ることもなく、地味な衣装で、食事もまた質素だった。
 蘭はいわば「幹部候補生」であるだけに、春日局も他の教育係の中臈、お年寄りたちもそれなりに厳格だった。覚えが悪いと時に叱責が飛ぶ。特に蘭にとって辛かったことは、生まれ故郷の下野の地方訛りがぬけず、周囲の失笑を買ったことだった。
 しかし蘭は屈しない。なんとかしてここで相応の身分になって、母や弟たちの生活を楽にしてやりたい。そして何よりも、姉夫婦への強い思いが蘭の意志を強固なものにしていたのだった。

 さて同じ頃お玉は、江戸に来て初めて宿下がりが許され城の外にいた。
 宿下がりといっても、もちろん京まで戻ることはできない。慣れない江戸の町をうろうろするうち日暮れ時になる。薄闇をふらふら歩くうち、不覚にも天秤棒を担いだ青菜売りとぶつかってしまった。周辺にナスや瓜など野菜が散乱した。
「ちょっと、どうしてくれるのよ! 小袖が水にぬれてしまったじゃないの!」
「うるせいやい! こっちこそせっかくの商売道具の野菜が台無しじゃねえか! どうしてくれる!」
 双方一歩もゆずらぬ口論となり、次第に野次馬があつまってくる。
「だいたい私は京の青菜売りの娘だけど、京の野菜に比べれば江戸の野菜なんて、肥しくさくて食えたもんじゃないね!」
「なんだとてめえ! いわせておけば!」
 と青菜売りは、今にもつかみかからんばかりの勢いである。
「待て! 双方共に落ち着け!」
 と野次馬の中から、頭から笠をかぶった浪人風の男がでてきた。
「なんだよあんたは! 関係ないだろ! 引っこんでなよ!」
 と玉は、浪人の仲裁にも怒りがおさまらない。
「ここは双方共にこれで手を引かぬか?」
 と浪人は二人に金貨を見せた。玉も青菜売りも唸った。
「けっ! 今日はこれで勘弁してやるよ! 以後気をつけな!」
「それはこっちの言うことだ! 次に会ったらだたじゃおかないぞ!」
 こうして玉は、金貨を受け取るとすばやくその場を立ち去る。しかし先ほどの浪人者がついてくる。
「なんでついてくるの! まだ私に何か用!」
 玉は不機嫌にいう。
「いや何、先ほどの話を聞いていると京都の出身だそうだな。その身なりからして、どこぞの旗本にでも奉公している女中といったところだろ。江戸の町を案内してやろうと思ってな。ついでに食事でもどうだ?」
 浪人は、三十代半ばといったところであろう。浪人といっても金だけは持っていることは間違いない。しばらく話しをしていて、都人のように裏表がないところが気にいった。確かに初めての江戸の町で、不安を感じていたところでもある。玉はこの浪人者の誘いを受け入れてしまう。

更新日:2022-11-11 19:41:42

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