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【第二章】別れと旅立ち

「隠しても無駄です。あなたは姉と一緒に不忍池にまいりましたね」
 蘭の執拗な追求に弥平は困りはてた。
「確かに、お前の姉と一緒に不忍池に行った。だがそれは商売のためであって、決してやましいことではないし、お前を裏切ったわけでもない!」
「嘘おっしゃい!」
 蘭は弥平に背をむけた。弥平の体に姉のスラリとした体、長い足がまとわりついているところを想像しただけで、虫唾が走りそうである。俗にいうプロポーション体格からしたら、自分は姉に到底及ばないことを、実の妹である蘭はよくわかっていた。それだけに余計くやしかった。
「弥平さん、姉と私どちらかを選んでください!」
 それだけいうと蘭は、その場を立ち去ろうとした。
「待て蘭!」
 弥平は、蘭の手首を強く引いた。
「俺はお前の姉でもなく誰でもない。選ぶとしたらお前以外の女を選ばない」
 弥平は真剣な顔でいった。それから弥平の必死の説得が続いて、蘭もようやく弥平を信じる気になった。いや信じたかった。
「本当に偽りではないのですね弥平さん?」
 不安気な表情で見つめる蘭に、弥平はゆっくりとうなずいた。

 
 しかし、やはりことが恋愛ということになると、蘭よりお網のほうが一枚も二枚も上手だった。事実上古着屋の店主であるこの姉は、弥平の常陸屋に大口の取引をもちかけたのである。もちろん交渉相手は弥平であり、これにより常陸屋での弥平の株がおおいにあがり、手代からの出世も十分にありえた。ただしお網との婚姻が条件だった。
 お網は仮病で店にでてこなくなり、蘭は育ての父といっていい七沢清宗に呼び出され、事の子細を告げられた。
「この一件は弥平さんはもちろんのこと、うちにとっても大変な利益になることなんだ。お前も大人ならわかってくれ」
「弥平さんは、なんと申したのですか?」
 蘭はまだ信じられないという表情で聞き返した。だが清宗は、そのことには言葉を濁した。
「よくわかりました。母様のため、幼い弟たちのためにも、私は弥平さんのことはあきらめます……」
 それから蘭は魂がぬけたようになって、自分の部屋にひきこもってしまった。そして弥平宛の手紙を父にたくすのである。弥平がその手紙を開いて、さぞや恨み言が書かれているのかと思ったが、内容はまるで違った。


「話は父からすべて聞きました。いつの間にか弥平さんの気持ちが、私から離れてしまっていたこと、私は知りませんでした。正直いって私はまだ子供です。父から割り切ってくれといわれても、中々割り切れるものではありません。でももう別れなくちゃいけないんだよね?
 私はあなたが寝ている顔が一番好きでした。ずっと隣にいて、夢をはぐくんで、今まで散々罪人の娘といわれてきたけど、こんな私でも好きな人と一緒になれて、いつか子供をつくって家庭をもつことにあこがれていました。
 いつか私があなたの長屋に行って、慣れないお酒を飲んで羽目をはずして、あなたに暴言をはいた時も、あなたは決して怒らず私を受け止めてくれた。そしてあの夜私は初めてあなたの女になった。私は泣いた。そして貴方も泣いた事、私は生涯忘れない。
 すべては夢だったね。でも私にとってあなたが夢であったように、あなたにとっても私がいつまでも夢であってほしい。そんなの無理かな?
 こどもの頃、私がいじめられて貴方に守ってもらった時から、かなうことなら、ずっと、ずっとあなただけに守られていたかった。でも無理だよね。私も大人だし、これからは自分の身は自分で守る。
 いつまでも弥平さんが私を守ってくれるなんて甘えだよね。でも弥平さんも人がよすぎるところがあるから気をつけて。私はあなたのために何か力になれたかな? 貴方のことをこれからは姉にたくします。本当に今までありがとう」
 


更新日:2022-10-29 06:19:49

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