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「春日局様、私を尼寺に帰してくだされ。私には将軍の側室などつとまりませぬ」
 と周恵は、春日局に必死の懇願をした。
「戻ってなんとするつもりじゃ?」
「尼として、天下万民の幸福をひたすら祈りながら、日々を過ごしたいと思っておりまする。私が伊勢からここに来るまでの間にも、多くの人々が路上に倒れている光景を目にしました。かってお釈迦様は、王子として何不自由なき日々を過ごし、それゆえやがて人が老いて死ぬことすら知らなかったと聞きまする。私もまた六條の家に生まれ、籠の鳥であったことを思いしらされました。私は僧侶として、私にできることをやりとげたいと思っておるのです」
 と十六の周恵は、自らの胸のうちをあかした。
「ほほほ、その年にして殊勝な物言いでござりますなあ。なれど、そなたはまだ若い。まこと祈るのみで、天下万民に幸福がおとずれると思っておるのか?」
「と申しますると?」
「もしかしたら、そなたも存じておるかもしれぬが、私はかの織田信長公に謀反した明智光秀の重臣の娘じゃ。あれからすぐに太閤秀吉公により、明智光秀もろとも我が父も討たれた。そして死体は晒し者にされたのじゃ。私ははっきりと、変わり果てた父の姿を見た。あれは私がまだ四つの時のことであったが、昨日のことのように、今でもはっきりと覚えておる」
 春日局は、かすかに声をつまらせながらいった。
「実を申すとな、そなたは上様の実の母君であらせられるお江の方様に、どこかにておるのじゃ」
「私がでござりますか?」
 周恵は不思議そうな顔をした。
「恐らく、上様がそなたをお気にめしたのは、そなたが亡き母君様の面影を宿しておるからなのかもしれぬ。あの方には、私もずいぶんと手ひどい目にあわされた……。お江様のことはそなた存じておるか?」
「いいえ、なにも存じておりませぬ」
 それから春日局は、お江の方の出自について語りはじめた。この話しは有名である。まだお江が幼子の頃、父である近江の大名浅井長政は、江からしたら叔父にあたる織田信長と戦った。浅井長政は敗北し自害してはてる。母であるお市の方は織田家重臣柴田勝家と再婚するが、勝家もまた羽柴秀吉によって滅ぼされ、勝家とお市はまたしても自害する。
 姉である淀君すなわち茶々は、母と二人目の父の仇である秀吉の妾にされる。さらにその淀君もまた、江にしてみてば夫である二代将軍秀忠と、義理の父にあたる徳川家康によって滅ぼされてしまった。
「人によっては、私はかの明智光秀の重臣の娘。あの方は信長の姪にあたる故、あの方にしたら私は仇も同然などと申す者もあるが、それは浅い見解じゃ。あの方にとり織田信長公こそ父の仇であるし、それを申したら夫であった秀忠公までもが、姉の仇ということになってしまう」
 そこで春日局は一つため息をついた。
「あの方は臨終の間際、私になんと申したと思う。上様には弟が一人おったのじゃ。忠長様という二つ違いの弟がのう。そなたとは今まで散々いがみあってきたが、共に戦国の世を生き抜いてきた女として頼みたい。忠長を殺さないでくれと、そうおっしゃられた。さすがに戦国世を生き抜いてこられただけあって、あの方は私の腹の中を見抜いておられた……」
「それでも殺したのですか?」
「殺した! 私は上様を守るため、例えこの身を地獄業火で焼かれようとかまわぬ。なれど禍根は必ず断たねばならぬ」
 と春日局は恐ろしい顔でいった。
「よいか周恵殿、この世はかように修羅の世界なのじゃ。そなたが万民を救いたくば祈っていてもらちがあかぬ。まずそなた自身が力を持つことじゃ。上様の寵愛を得て、権勢を持ち、初めてそなたは天下万民を救うことができるのじゃ」
 春日局の言葉は、周恵の人生観を大きく変えることとなった。結局、周恵はその身を将軍に委ねることを決意するに至る。

 









更新日:2023-02-19 11:36:21

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