• 13 / 75 ページ

【第一章】かすかな炎

 清らかな五十鈴川の流れが、長旅の疲れをいやしてくれた。玉と満子は、ようやく伊勢の国へ至り伊勢神宮に参拝する。 
 伊勢神宮は内宮と外宮という二つの世界にわかれており、外宮は五穀をつかさどる豊受大御神を祀っている。そして内宮は、属に八百万の神がいるという我国おいて、最高神の天照大神を祀っていた。両方あわせれば、今日の感覚で世田谷区ほどの広さとなる。いわば一つの都市がそのまま神域といっていい。
 玉と満子は五十鈴川にかかる宇治橋をわたり、しばし玉砂利を敷かれた参道を進む。やがて火除け橋を渡ると第一鳥居が見えてきた。さらにしばらく進むと第二鳥居へと至る。神楽殿、五丈殿、御酒殿と続き、まもなく天照大神のおわす本殿が見えてくる。
「これが伊勢神宮? はるか昔に建造されたわりには、ずいぶんと建物は新しいんやな?」
 玉は不思議な顔をした。
「玉、実はこの本殿はな、十一年前に建てかえられたんよ」
 伊勢神宮は内宮、外宮とも二十年ごとに建て替えがおこなわれる。これを式年遷宮という。およそ八百年にわたって連綿を続けられてきたが、戦国の世となり、それもついには途絶え伊勢神宮は荒廃した。
 そこで再興に立ち上がったのが、これから満子が世話になる慶光院三代目の住職清順だった。諸国をめぐって勧進をおこない、ようやくにして遷宮を実現させたわけである。
 玉は伊勢神宮の本殿を目のあたりにしながら、この前、己に宿っていたらしい蛇の精霊がいったことを思いだしていた。己には神仏や森羅万象が味方するという。自ら神仏を崇め、そして自らもいずれ崇められるような人間になりたい。しかし、そのためには今、目の前にいる満子を、越えなければならないような気がしてならなかった。
 満子は玉にとって畏敬すべき存在であった。その一方で、いずれ越えなければならない壁であるようにも思えた。しかし越えた先には、あの蛇の精霊がいうように、身の破滅が待っているのだろうか? その答えはまだ玉にはわからなかった。


 さて、臨済宗妙心寺派の門跡寺慶光院。南北朝の頃まで起源をたどることができるという、由緒正しき尼寺である。現代の住職は七代目で周長上人だった。さっそくではあるが満子は髪をそり、尼僧姿となる。名も周恵と改めた。その姿を一目見た玉は、驚嘆のあまり思わず頭を下げた。
「尼君様、なんと見目麗しい」
「これ、私はそのように大それた者ではありませぬぞ」
 満子いや、周恵は思わず苦笑した。比丘尼姿となった満子、いや周恵の気高さ、そして風格はやはり常人のそれではなかった。
「まことこの方は、自分と三つしか年が違うだけなのだろうか?」
 玉は疑念さえ抱いた。まるで遠い世界に住む何者かを見ているようで、ふと再びあの蛇の精霊がいった言葉を思いた。
「確かにこの方ならもしかしたら、高貴な方に嫁ぐ宿命だというのも納得できる。しかし、それにしても自分は所詮この方の影にすぎないのか?」
 玉の疑念は深まるばかりだった。

 
 やがて周恵と、そして玉の仏教の修行がはじまった。玉は毎日般若心経を唱え、経典を読みあさった。その中でも特に玉が興味をもった物語は、釈迦の故国天竺(インド)でのナンダという少女の物語であった。
 ある時お釈迦様が人々に説法をすることとなった。しかし場所が深い山奥で、夜になると真っ暗である。地元の権力者が金にものをいわせて油を大量に購入し、周囲を明るくする。その一方でナンダという、すでに父母を失った貧しい少女もまた、母の形見であった首飾りを売ってその金で油を購入する。
 さて釈迦の説法の日、周囲は強風が吹き荒れていた。権力者が灯した明かりは風でことごとく消えたが、唯一少女が灯した明かりだけが消えることなく、周囲を照らし続けたというのである。
「私も消えることなく世を照らし、そしてあの方を照らす、かすかな炎となれたら……」
 こうしてかって神社で人々から崇められている神体を、漬物石と取りかえた少女は変貌する。次第、次第に信仰へとのめりこんでいくのである。そしてそれは終生変わらなかった。
 玉と周恵が伊勢に来てからひと月ほどがたった。突如として周恵の江戸行きの話しがもちあがる。式年遷宮のため、多額の金銭を寄付した徳川幕府に対する御礼のため、江戸城に赴くこととなったのである。玉も周恵の供として江戸にゆく。もちろん両者は、この旅が二度と戻らぬ旅であるなどとは、夢想だにしていなかった。
 
 

 
 
 
  
 

更新日:2022-09-17 13:29:08

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook