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豊島沖海戦

挿絵 318*159

1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が、朝鮮半島西岸の牙山湾の入口に浮かぶ豊島沖で戦った海戦。宣戦布告直前に双方の艦隊が遭遇して起き、大日本帝国海軍が圧勝した。
日本政府は清国政府に対して7月19日に5日間の猶予付最後通牒を送っており、その回答期限が切れた7月25日には両国は実質的に戦争状態にあった。

坪井少将が率いる連合艦隊の第一遊撃部隊(吉野(常備:4,216トン)、秋津洲(常備:3,150トン)、浪速(常備:3,709トン))は仁川沖の豊島付近を偵察していたが、清国海軍の済遠(基準:2,355トン)、広乙(常備:1,000トン)と遭遇、豊島沖海戦が発生した。

日本側が済遠に砲撃を集中すると、損害を受けた済遠は戦場から逃走した。このため広乙が集中攻撃を受けたが、広乙は陸近くに擱座、乗員は脱出した。日本側の被害はほとんどなかった。その後砲艦操江(常備:640トン)に護衛された英国国籍の「高陞号」が戦場に到着した。

操江は秋津洲が拿捕。高陞号は清国陸軍兵士約1100名を輸送中であったが浪速がこれを臨検し、随航することを命じた。英国人船長はこれに応じたが、清国兵はこれを拒否。このため当時浪速艦長であった東郷平八郎大佐はこれを撃沈した。
宣戦布告前に英国船が撃沈されたことで英国世論は一旦は硬化したが、後に国際法的に問題ないことが判明し沈静化した(高陞号事件)。
かつてイギリスに留学経験のあった東郷は、国際法をよく理解していた。

更新日:2022-07-03 12:55:14

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