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日清戦争の開戦前夜
1894年に発生した甲午農民戦争の鎮圧のために朝鮮政府は清国に出兵を要請したが、天津条約に基づき日本も6月2日に出兵を決定、6月5日には大本営が設置された。陸軍は直ちに混成第九旅団を編成し、6月16日にはその半数の4千人を仁川上陸させるなど、既に戦争への準備が整っていた。
対する海軍は準備不足であり、松島型3番艦の橋立は6月26日就役したばかりであり、2番艦厳島も修理が必要な状態であった。
主力艦艇は6月末に佐世保に集結したが、この時点では戦闘方針も定まっていなかった。このため佐世保沖で連日艦隊運動訓練と模擬海戦が行なわれ、坪井航三少将の主張する単縦陣を戦闘方針とすることが定められた。
この間の7月19日には連合艦隊が編成され、伊東祐亨中将が初代連合艦隊司令長官に任命された。7月23日、連合艦隊は佐世保を出港し、朝鮮方面へと向かった。
対する海軍は準備不足であり、松島型3番艦の橋立は6月26日就役したばかりであり、2番艦厳島も修理が必要な状態であった。
主力艦艇は6月末に佐世保に集結したが、この時点では戦闘方針も定まっていなかった。このため佐世保沖で連日艦隊運動訓練と模擬海戦が行なわれ、坪井航三少将の主張する単縦陣を戦闘方針とすることが定められた。
この間の7月19日には連合艦隊が編成され、伊東祐亨中将が初代連合艦隊司令長官に任命された。7月23日、連合艦隊は佐世保を出港し、朝鮮方面へと向かった。
更新日:2022-07-03 12:16:25