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青年学派思想

挿絵 279*181

1886年にはフランスから招聘された著名な造船技師であるルイ=エミール・ベルタンが本国で採用されていた青年学派思想(多数の小型艦で大型艦に対抗する)の採用を進言し、これが受け入れられた。

ベルタンは大型装甲艦の優先順位を落とし、4000トン級の海防艦4隻および水雷艇の量産(結果的に21隻建造)を優先することとした。
実際には小型巡洋艦高雄(常備排水量1,774トン)や通報艦八重山(常備排水量1,609トン)が先行して着工された。海防艦は32 cm砲を1門搭載した松島型防護巡洋艦(常備排水量4,278トン)として実現した。

1番艦松島および2番艦厳島はフランスに発注されたが、3番艦の橋立は大型艦建造の経験のために横須賀造船所で建造された。松島型は先進的過ぎる面があったこともあり戦力化まで時間がかかり、このため4番艦はキャンセルされ、やや小型の秋津洲(常備排水量3,150トン)が建造された。

ベルタンが1890年に帰国すると、イギリスに防護巡洋艦吉野(常備排水量4,216トン)が発注された。日清戦争は、これらの艦艇で戦うことになる。新造艦の多くには開発されたばかりのアームストロング社製速射砲を搭載されていた。

松島型の性能に満足しなかった海軍は本格的装甲艦(戦艦)の保有を望んだが議会がなかなか承諾せず、明治天皇の建艦詔勅によって1893年にようやく予算が通りイギリスに富士型戦艦2隻が発注されたが、就役は1897年で日清戦争には間に合わなかった。

更新日:2022-07-03 11:30:11

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