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義貞の上洛

挿絵 640*480

元弘2年/正慶元年(1332年)に鎌倉を陥落した義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)は、二階堂永福寺に布陣した。
北条残党を追捕し、5月28日には執事の船田義昌が北条高時の嫡男である邦時を捕らえ、翌日に斬首している。

7月に入ると後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が次々と上洛した。無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利尊氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく尊氏の子である千寿王の下へ集った。尊氏が鎌倉陥落に先んじて京都を制圧したという功績も、武士達の尊氏への評価を高める要因となった。

尊氏は我が子を支援する為、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟を鎌倉に派遣した。新田と足利が手柄を争う情勢を呈してきた。
鎌倉の街中で武士同士の争いが起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあるとして義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。

元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。

更新日:2022-07-20 10:28:19

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