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 傘を返しそびれて二、三週間ほどが経ち、あれから初めて雨が降った。なんとなく決まりの悪い思いをしながら、例の傘をさして歩く。自分の傘も持っていたはずが、案の定なくなってしまったのだ。
 ずっと鞄の中に入れてあったおかげで、例の傘はなくなることもなかった。便利なものだ。これからは折り畳み傘を持ち歩く習慣をつけたほうがいいだろう。
 雨の日には、やはりあのバス停に寄っていきたくなる。今日は傘もあるし、雨傘男に会うことはないだろうが、またあの人がいるかもしれない。・・・だからといって、傘を返せそうにはないが。
 仮にいたとして、どんな態度を取ればいいのだろう、と考えているうち、バス停に着く。・・・黒っぽい人影が見える。黒い雨合羽に黒い長靴。それが誰かをすぐに察して、急にバス停に来たことを後悔しはじめる。私は何をしようというのだろう。
 素知らぬ顔で通り過ぎようか、方向を変えて避けようかと頭に浮かべると同時に、人影がこちらを向く。そしてにこにこしながら手を振ってくる。さすがにこうなっては逃げるわけにもいかないので、軽く会釈でもして通り過ぎようと足を進めた。
 だが、前まで来たところで、相手がわざわざ立ち上がって声をかけてくる。
「こんにちは。よかった、使ってくれて」
 さてどうしたものか。
「ご一緒しません?」
 そんなことを言われても困る。つい黙りこくってしまったが、その間も相手は表情を変えないでいる。私にどうしろというのか。
 時間が空くにつれて、どう答えるべきかどんどんわからなくなる。相手がまだ答えを待っているのか、もう諦めているのかもよくわからない。
 短時間ですっかり頭が沸騰し、何か開き直った気分にまでなってしまった私は、結局脈絡のないことを尋ねた。
「どなたですか」
「あれ」
 相手は何やら表情を変え、一人で何かつぶやいている。
「まあそうか・・・うん」
 かろうじて聞こえたのはその程度で、あとはほとんど聞き取れない。しかし、相手はそんなそぶりも表情もすぐに消してしまい、私の顔を覗き込むようにしながら言った。
「トバリですよ、ト・バ・リ。覚えてくれると嬉しいな」
 その名前に聞き覚えはない、と思う。ただ、なんとなく、この人のことは前から知っているような――正確に言えば、この人は前からこんな名前だったろうか、というような、妙な感覚があった。
 詳しいことを聞いてみようかとも思うが、何をどう聞いていいのかわからない。そもそも名前を聞いておいて、前から知り合いかどうかやら、本当にそういう名前なのかやら、また尋ねるのはさすがに失礼ではなかろうか。あまり気に留めなそうな相手ではあるが。
 考えがまとまる前に、相手の手が私を捕まえる。この人は人の手を引っ張る癖でもあるのだろうか。そもそも私はまだご一緒しようと返すどころか、一言も返事をしていない。それに、今日といいこの間といい、バスに乗らないのならなぜバス停にいたのか。
 そんなことをぐるぐると考えるものの、だから何ができるというわけでもなく、引っ張られるがままに相手についていく。それ以外に何をすべきかよくわからない。

更新日:2021-12-26 19:30:00

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