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1°の隔心

出勤した加瀬は、その足で役員フロアに向かった。
エレベーターを降り、いくつ目かの角を曲がったところで、前方のドアが開き、室内に向けて一礼をする秘書が見えた。加瀬は足早に彼女に歩み寄り、ドアから数歩のところで声をかけた。
「後藤専務はいる?」
秘書はふっと表情を曇らせ、トーンを落とした声で加瀬に囁いた。
「在室ですが……」
「来客中かな? それとも電話?」
ちらっとドアの方に視線を向けて、穏やかな微笑みで尋ねる。加瀬の、いつも少し眠たそうな眼差しは、相手の緊張感を和らげ、警戒を解き、秘密を打ち明けやすくする。生まれながらに弁護士が天職だったのかもしれない。加瀬に尋ねられた秘書は目を伏せたまま、小さく頭を振った。
「いいえ。ただ、今はご機嫌が悪いようで」
秘書の曇った表情の理由がわかり、加瀬は更に目尻を下げた。
確かに後藤は真田ホールディングスの中でも、あらゆる意味で「屈指のキレ者」と言われている。
入社当初から一馬身以上抜きんでていた後藤は、出世の階段を爆速で駆け抜け、最年少で役員となった。その間、自らの仕事に一切の手抜きも妥協もせず、何事にも緻密さと完璧を追求するだけでなく、同レベルの出来栄えを部下にも求め、要求水準を満たさない部下は容赦なく切り捨ててきた。若い頃にはお世辞や媚びへつらいはするのもされるのも嫌い、酒宴の接待を冷たい表情と言葉で何度も場と上司の顔を凍りつかせたが、今は少し丸くなって、お世辞にそれなりの返答をするようになったと聞く。しかし、突然、別人のようにキレて、容赦ない反撃に転じることもなくなったのか、それとも、周りの気遣いでそのような機会がないだけなのか、加瀬にも判断できなかった。
扱いにくい後藤に対する苦言を、各ホールディングスの経営陣からしばしば聞く。そんな後藤が出世できたのは、冷徹とも言えるほどの合理的経営手腕を存分に揮って、いくつもの部門を立て直してきたたからで、決して後藤に人望があるからではない。
後藤の足元は、薄氷より脆いことを加瀬は危惧していた。
加瀬はさらに目尻を下げて、穏やかな微笑みで頷いた。
「わかりました。気をつけます」
その表情は、加瀬なら後藤の機嫌をどうにかできる、いや、どうにもできなくてもこれ以上の悪化は食い止められると、期待させるには充分なものだった。
後藤の部屋に向かう背中に、秘書の期待と懸念の混じった視線を感じる。
キレ者の後藤がキレていると警告されても、訪ねようとしている加瀬を怖いもの知らずと思っているのだろう。
加瀬はドアの前に立ち、深呼吸をしながらネクタイとスーツを整える。それから、ゆったりとしたリズムで二回、ノックした。
「どうぞ」
険を含んだ声が返ってくる。どうやら秘書の言った通り、かなり機嫌が悪いようだ。
ドアを開くと、執務机に向かった後藤が、厳しい視線を机上に注いでいるが、その視線の先には大ぶりの湯飲みがあるだけだ。
何が後藤を苛立たせているのか。
室内をざっと見回し、特に変わった様子がないことを確認する。これは直接、本人に尋ねるしかないか、と思った加瀬は、室内に漂う香りに気づいた。
なるほど。
口の中で呟き、後藤の机の電話を勝手に使う。
後藤が細い三白眼で睨み上げたが、加瀬は構わずに秘書に伝えた。
「すみません、お茶をもらえますか? 熱い焙じ茶を。客用ではなくて、大き目のマグカップか何かで、お願いします」
受話器を置いた加瀬は、後藤に微笑んで頷いた。
すぐに秘書が盆に大ぶりの湯飲みを乗せて運んでくる。加瀬は盆から直接湯飲みを取り上げ、「ありがとう」と優しく礼を言いつつ、すぐに部屋から送り出す。
秘書が出ていくと、加瀬は受け取った湯飲みを後藤の机に置き、代わりに後藤の前に置かれていた湯飲みを手に取った。
「何か用ですか?」
ようやく後藤が口を開く。加瀬はソファに座り、少し冷めた煎茶を啜った。
「お茶の淹れ直しくらい、言えばいいでしょう。後藤さんの秘書なんですから」
「梓社長に言われましたので」
後藤は熱い焙じ茶に息を吹きかけ、慎重に口をつけた。
「社長に何を?」
真田グループのトップ、真田ホールディングス社長真田梓の指示で、加瀬が知らないものがあるとは珍しい。尋ねる加瀬に、後藤は口角を不服そうに下げて、しぶしぶ答えた。
「秘書の主な仕事はスケジュール調整だと」
あぁ、と加瀬は心の中で手を叩いた。そう言えば、先月まで後藤さんの秘書だった彼女は、梓社長の鶴の一声で政信氏の秘書へと異動になった。つまり、後藤の細かな要求がパワハラと訴えられる前に、梓社長直々に手を打ち、後藤に釘を刺したのだ。

更新日:2021-12-02 18:57:53

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