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日中戦争勃発

挿絵 758*401

1931年日本軍は中国東北地方全域を占領し、満州事変が発生した。翌32年、上海で日本軍が突如中国軍に攻撃されて第一次上海事変が起こり、1937年には盧溝橋で日本軍を中国軍が攻撃する廬溝橋事件が勃発。1945年に太平洋戦争で日本が降伏するまで続く全面的な日中戦争となった。

1937年(昭和12年)8月、日本海軍は長崎大村基地から航空隊の96式陸攻38機が、南昌・南京・広徳・杭州を台南の新竹基地との渡洋爆撃を行って世界中を震撼させた。

1940年(昭和15年)、帰国した山口多聞は第一連合航空隊司令官を命じられた。水雷の専門家であった彼には畑違いの仕事だった。第一連合航空隊司は鹿児島県鹿屋航空隊と台湾の高雄航空隊によって編成されていた。それぞれの基地は、約20機の双発の九六式陸上攻撃機を保有していた。

5月11日、第一連合航空隊は中国の漢口基地に移動した。漢口基地で第二連合航空隊と統合され、重慶への空襲部隊が編成された。中国での実戦経験が長い第二連合航空隊が昼間爆撃、第一連合航空隊が夜間爆撃を担当することになった。

5月21日、海南島の海軍基地から第三連合航空隊の30機が支援に到着。5月26日、約100機の大編隊が昼間爆撃を行った。九六式艦上戦闘機が護衛に着いたが、航続力が短いために目的地を前に引き返して行く。その後に敵戦闘機や対空砲火で、撃墜される日本機が多かった。

同年7月中旬、新たに設計された新式の試作機段階の十二試艦戦15機が漢口に到着した。後の零戦である。零戦は航続距離が長く、重慶まで完全な護衛が可能となった。これにより、爆撃機の損失が激減した。
9月5日で重慶爆撃は作戦を終了。

11月1日、山口は第二航空戦隊司令官を命じられた。

更新日:2021-07-09 18:34:03

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