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米国へ駐在

挿絵 800*534

大正十年(1921)2月、山口は米国駐在員に選ばれた。当時は飛行機ではなく客船で赴任。ワシントンの日本大使館には山本五十六がいた。共に直にアメリカの文化に触れて、その経済力の大きさを肌で感じただろう。こんな大国ともし戦争になったら生産力で勝ち目がない。

山口の駐米中にワシントン軍縮会議が開催された。結果的に主力艦の保有率は米英が5、日本が3、仏伊が1.67と決定した。海軍は、建造が許される排水量で、戦艦から改造された空母「赤城」と「加賀」の他に残る排水量の半分で空母2隻の建造を計画。それが「蒼龍」と「飛龍」である。この4隻はいずれも真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー作戦で全て沈没する悲劇的な運命となる。
山口は大正12年(1922)3月に帰国の途についた。

帰国した山口は戦艦「長門」の水雷科分隊長を拝命。開戦時には連合艦隊の旗艦である。
同年9月1日、関東大震災が発生。世情が騒然とする中で、結婚話が持ち上がった。相手は河村善益の五女敏子であった。当時の海軍士官の結婚に当たっては海軍大臣の許可が必要であった。結婚願を提出した後、潜水学校の教官兼分隊長の命令が下された。
翌大正13年12月に山口は大佐に昇進し、海軍大学校に入学。15年に卒業して第一潜水戦隊参謀となった。

同月、大正天皇が崩御。年号が昭和と改元された。


更新日:2021-07-05 22:38:16

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