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プロローグ はじまりの天使
「さ、行きましょう。どこへなりとも」
あの日の彼女の言葉を思い出す。自分でもわからない、自分のいるべきどこかへ行きたがり、世界の平和だなんてらしくもないことを口にした彼女。いつになろうと、どこにあろうと、何者であろうと、変わらず脆く寂しい少女。まるで――そう、ごく薄いガラスで作られたグラスのように。繊細な彼女を満たせるのは、きっと私だけ――。
なんて、気取ってみたりする、一人きりのひととき。また元の時間へと帰っていった彼女に取り残された私はここで留守番。そんな退屈なことを繰り返すより私と紅茶でも飲んでいればいいでしょうに、と思わないこともないけれど、それが彼女の望みなら私は従うだけ。
カップに口をつけ、窓の外を眺める。空全体を覆う暗い橙にところどころ明るい色が混ざり込み、複雑な表情を見せる夕焼け空。あらゆる色彩の中でも特に美しく、同時に何か不穏なものを秘めている――これほどまでに見る者の心を捉えるような景色が他にあるだろうか。ティータイムは空がこんな色をしている時間に限る。
まあ、どうせ、ここから見える空はいつだってこんな色なのだけれど。
同じことばかり考えるのにも飽き、小さくため息をつく。彼女がいないだけでなんて退屈になるのだろう。外に行くのなら私も連れていってくれればいいのに、彼女は私を頑なにこの部屋から出そうとしない。そばにいられたのなら、私は彼女のためになんだってするのに――ええ、本当になんでも。だって、それが私なんですから。
人は私のことを悪魔と呼ぶし、私も自分のことを悪魔だと思うことにしている。けれど、厳密にいえば実際のところ私が何者なのかはよくわからない。黒い尻尾はあるものの、翼なんかは持たないし、物語の悪魔のように魂を奪うわけでもなければ、「悪しき魔」と表されるようなものでもない(と、少なくとも私は思う)からだ。
それはともかく、私について確かなことはひとつ。人間の望みを叶える存在であること、ただそれだけ。人の望みによって私は存在し、それを叶えることで自分の存在を確かめる。だからそれがどんなものであろうと、私はその望みを叶える。私はそんな存在。
今いる部屋も、彼女がとりあえずの居場所を望んだから作ったもの。口では言わなかったけれど、安心できる場所、という絶対的な条件付きで。言われなくたって私には彼女の望みがよくわかる。
それに応えるべく、私はこの部屋を時間と空間の隙間に作り出した。どの時間からもどの空間からも隔てられた、彼女と私のためだけの場所。同時に、望みさえすればどの時間にもどの空間にも通じる素敵な場所。窓の外の景色も、扉を開いた先に広がる景色も、私たちの思い通り。彼女にはぴったりなはず。
そして、もちろんこの部屋以外にも叶えた望みはある。より大胆で、愉快で、可愛らしい望み。言うなれば今の彼女を彼女たらしめるのも、今の私を私たらしめるのも、彼女の望み――ねえそうでしょう、私の可愛い女神様。
彼女は自分自身の願いによって何もかもを変えてしまった。それはもう、自分自身の存在さえも、表面上はまるっきり。けれど、彼女の本質は何も変わってはいない。どこまでも傷つきやすい、寂しげでか弱い少女。傷つくのを恐れて何もかもから逃げ出したいと考え、それでも何かを望まずにはいられないひねくれ者。
だってそうでしょう?自分のおかれた状況から逃げ出してこの部屋に来たはずなのに、しょっちゅう元の世界へ帰っていくんですから。どんな時代のどんな場所へも行けるというのに、彼女が行くのは自分が今まで暮らしていた時間と場所だけ。ただあの日の続きを追うばかり。
こんなに楽しいひとなんですから、そばにいさえすれば退屈なんてしないでしょうに。
人間の望みを叶えることは、私のような存在にとっては唯一の仕事で、唯一の存在意義で、唯一の、そして最上の娯楽。それが今では、私の相手は彼女ただ一人。思い切ったことを真剣に考える彼女はそれにふさわしいひとではあるけれど、こうして置いていかれてしまえば何も面白いことがない。
――それなら、私自身が変わってみようか。
ふと思いつく。どうせ彼女の望みしか叶えないのなら、私は彼女の天使になろう、と。可愛い女神様のために、なんでも望みを叶える天使。彼女ができないことだって、やりたがらないことだって、私がみんな叶えてみせる。
そう、あなたが憎み愛する世界も、私が何もかも変えて差し上げます。たとえあなたが何もしなくたって、あなたの考えはすっかりわかるんですから。
言ったでしょう、悪魔は人間を陥れて弄ぶもの、と。結局人間なんておもちゃ箱。ひっくり返したらさぞかし愉快なことでしょう。
少し冷めかけた紅茶を飲み干し、私は心の中で呟いた。
さあ、終末のはじまりはじまり。
「いいのよ、何よ今さら」
あの日の彼女の言葉を思い出す。自分でもわからない、自分のいるべきどこかへ行きたがり、世界の平和だなんてらしくもないことを口にした彼女。いつになろうと、どこにあろうと、何者であろうと、変わらず脆く寂しい少女。まるで――そう、ごく薄いガラスで作られたグラスのように。繊細な彼女を満たせるのは、きっと私だけ――。
なんて、気取ってみたりする、一人きりのひととき。また元の時間へと帰っていった彼女に取り残された私はここで留守番。そんな退屈なことを繰り返すより私と紅茶でも飲んでいればいいでしょうに、と思わないこともないけれど、それが彼女の望みなら私は従うだけ。
カップに口をつけ、窓の外を眺める。空全体を覆う暗い橙にところどころ明るい色が混ざり込み、複雑な表情を見せる夕焼け空。あらゆる色彩の中でも特に美しく、同時に何か不穏なものを秘めている――これほどまでに見る者の心を捉えるような景色が他にあるだろうか。ティータイムは空がこんな色をしている時間に限る。
まあ、どうせ、ここから見える空はいつだってこんな色なのだけれど。
同じことばかり考えるのにも飽き、小さくため息をつく。彼女がいないだけでなんて退屈になるのだろう。外に行くのなら私も連れていってくれればいいのに、彼女は私を頑なにこの部屋から出そうとしない。そばにいられたのなら、私は彼女のためになんだってするのに――ええ、本当になんでも。だって、それが私なんですから。
人は私のことを悪魔と呼ぶし、私も自分のことを悪魔だと思うことにしている。けれど、厳密にいえば実際のところ私が何者なのかはよくわからない。黒い尻尾はあるものの、翼なんかは持たないし、物語の悪魔のように魂を奪うわけでもなければ、「悪しき魔」と表されるようなものでもない(と、少なくとも私は思う)からだ。
それはともかく、私について確かなことはひとつ。人間の望みを叶える存在であること、ただそれだけ。人の望みによって私は存在し、それを叶えることで自分の存在を確かめる。だからそれがどんなものであろうと、私はその望みを叶える。私はそんな存在。
今いる部屋も、彼女がとりあえずの居場所を望んだから作ったもの。口では言わなかったけれど、安心できる場所、という絶対的な条件付きで。言われなくたって私には彼女の望みがよくわかる。
それに応えるべく、私はこの部屋を時間と空間の隙間に作り出した。どの時間からもどの空間からも隔てられた、彼女と私のためだけの場所。同時に、望みさえすればどの時間にもどの空間にも通じる素敵な場所。窓の外の景色も、扉を開いた先に広がる景色も、私たちの思い通り。彼女にはぴったりなはず。
そして、もちろんこの部屋以外にも叶えた望みはある。より大胆で、愉快で、可愛らしい望み。言うなれば今の彼女を彼女たらしめるのも、今の私を私たらしめるのも、彼女の望み――ねえそうでしょう、私の可愛い女神様。
彼女は自分自身の願いによって何もかもを変えてしまった。それはもう、自分自身の存在さえも、表面上はまるっきり。けれど、彼女の本質は何も変わってはいない。どこまでも傷つきやすい、寂しげでか弱い少女。傷つくのを恐れて何もかもから逃げ出したいと考え、それでも何かを望まずにはいられないひねくれ者。
だってそうでしょう?自分のおかれた状況から逃げ出してこの部屋に来たはずなのに、しょっちゅう元の世界へ帰っていくんですから。どんな時代のどんな場所へも行けるというのに、彼女が行くのは自分が今まで暮らしていた時間と場所だけ。ただあの日の続きを追うばかり。
こんなに楽しいひとなんですから、そばにいさえすれば退屈なんてしないでしょうに。
人間の望みを叶えることは、私のような存在にとっては唯一の仕事で、唯一の存在意義で、唯一の、そして最上の娯楽。それが今では、私の相手は彼女ただ一人。思い切ったことを真剣に考える彼女はそれにふさわしいひとではあるけれど、こうして置いていかれてしまえば何も面白いことがない。
――それなら、私自身が変わってみようか。
ふと思いつく。どうせ彼女の望みしか叶えないのなら、私は彼女の天使になろう、と。可愛い女神様のために、なんでも望みを叶える天使。彼女ができないことだって、やりたがらないことだって、私がみんな叶えてみせる。
そう、あなたが憎み愛する世界も、私が何もかも変えて差し上げます。たとえあなたが何もしなくたって、あなたの考えはすっかりわかるんですから。
言ったでしょう、悪魔は人間を陥れて弄ぶもの、と。結局人間なんておもちゃ箱。ひっくり返したらさぞかし愉快なことでしょう。
少し冷めかけた紅茶を飲み干し、私は心の中で呟いた。
さあ、終末のはじまりはじまり。
「いいのよ、何よ今さら」
更新日:2020-09-08 21:44:14