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信用の無い殺し

私は旦那のことを『えーくん』と呼んでいる。
「えーくんを殺して欲しいの」
 と、酔っ払った勢いで彼に口走ったのは二ヶ月前の夜だった。
 彼は同じ会社で働く同僚の男で、予てより私に交際をしたいと申し出ていた。
 しかし、私は既に結婚している。子供こそ金銭面の問題から作っていなかったが、夫婦の中は3年間円満だった。だが、最近彼の帰宅時間が遅くなっており、本人は仕事の残業が長引いていると弁解しているが、スーツに付いた香水の匂いと、何より息の酒臭さから夜の店に頻繁に出入りしていることは明白である。
 私には黙っているが、給与明細に乗っていない交通費などは現金で会社から受け取っていたのだろう。貯金が引き出されていないことを鑑みるに、資金の出所としてはそのくらいしか思い浮かばない。まさか、会社の資金を騙し取っているというようなことはあるまい。
「わかったよ。でも、条件があるよ」
 中ジョッキに半分ほど残ったビールを一気に煽ると、殺人依頼をした私の瞳をしっかりと見据えて、彼はそう切り出した。私にはその先の言葉が直ぐに検討がついたので、それに沿う形で返答した。
「はいはい。成功したら、付き合ってあげても、いいわよ」
「本当かい?」
 椅子から立ち上がりそうな勢いで、彼は前のめりになりながら彼は私に確認した。その興奮した様子に私は焦りを覚えた。
 彼は本当に、私の旦那であるえーくんを殺してしまうかも知れないと、一抹の不安が胸を過ぎったのだ。
 しかし、私はそこで取り消してしまうことも躊躇った。旦那への憤りをその同僚にぶつけた後であり、ここで彼を止めるのはなんだか、それまで連ねてきた怒りの言葉たちが演技のように感じられるかも知れないなどと感じ、体裁を取り繕うように「ええ、本当よ」と、勢いでその念押しにも同意した。
「分りました。善は急げです」
 彼はそう言うと、私たちの座るカウンター席に10000円札を一枚残して、その場を後にした。私の呼び止める声も無視して。
 私は暫く途方に暮れた後、残った枝豆とウイスキーを空にして、会計を済ませてから店を出た。
 この日は旦那は社員旅行で帰ってこないと聞いていた。
 しかし、その翌日以降、旅行から帰ってきた旦那の心境に変化が訪れた。なんと今まで通り、夕食が出来上がる時間に帰ってくるようになったのだ。
 その日から、同僚は何かのきっかけで二人きりになると、その都度、「どうですか。旦那さん、元に戻ったでしょう。僕が殺したんですよ。貴女以外の女を愛していた旦那さんを。今貴女と暮らしているのは、貴女以外の女を愛していた以前の旦那さんなんです」という旨のことを私に話すようになった。
 私は、「何のことかしら、気持ちが悪い」と、その度に返答している。

更新日:2020-01-16 07:19:12

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