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黒い海

 夜の砂浜。月と星がぼんやりと辺りを照らす。それでも海は黒い。そんな海からやって来る波が、音を立てて僕の足元を濡らし、ぬるりとした感触を残して去っていく。
 既に服を脱ぎ去った僕の体は、暗い中でやけに白く見えた。全部嘘だ。全身の皮を剥いでしまいたい気分。けれどそこまではできないから仕方がない。夜風とともにため息をつきながらナイフを握り直す。取り掛かろうとしたところでふと海を見るのが嫌になり、体を反転させ海に背を向けた。
 うまく吐き出すことができるのならこんなことをしなくてもいいのに。わざわざ人に見られないようこんな夜に出てくることもないのに。憂鬱な気もするけれど、気持ちがいいと思わなくもない。嫌なのに少し楽しみでもある。ああ、こんな感情だって気持ち悪い。全部外に出さないと。
 喉にナイフを突き立て、横に搔っ捌く。痛い。ぱっくり開いた傷からは、油のようにドロドロとした液体が溢れて来る。感情廃液。黒い。粘っこい。気持ち悪い。
 みんなこれをトイレかどこかで吐くのだけど、僕はそれができないからこうして傷をつけて外に出す。体表を伝う感覚、指にまとわりつく感触、何もかもが気持ち悪い。こんなものが僕たちの体に溢れているのだ。
 耐えきれなくなり、胸を、腹を、腕を、肩を、さらに切りつける。早く終わらせたいおかげでめちゃくちゃだ。傷からドロドロと感情廃液が大量に流れ出る。全身がぬめりに覆われていく。どれだけ流れようと液は止まらない。痛い。苦しい。気持ち悪い。泣きたくなる。叫びたくなる。
 どうにもできない気分を高ぶらせるまま、ナイフを口の中に押し込む。舌も喉も傷つき、粘つく液体が溢れる。吐き気がする。けれど吐けない。何故だか興奮して背筋がゾクゾクした。粘液まみれのナイフが滑り落ちて足に突き刺さる。
 頭が熱い。脳が溶けて、感情廃液とともに体から流れ出ていきそうにさえ思える。ぐらぐらする感覚に思わず二、三歩後ずさりすると、僕はバランスを崩して背中から倒れ込んだ。

 黒い海が僕を飲み込む。案外すぐそこはもう深いところだったらしい。感情廃液に汚された海は全身に気味悪くまとわりついてくる。生暖かいような冷たいようなドロドロした感触。
 もう逃げ場はない。ゆっくりと沈みながら、傷口から液が入り込んでくるのを感じる。汚いものが僕の中に再び満ちていく。気のせいかもしれない。けれど我慢ならない。
 抵抗しようともがきながら目と口を開く。しかしそんなことをしても無意味だ。黒い海の中では何も見えないし声も出せない。それどころか、異物に触れた眼球は痛み、開けた口から大量の感情廃液が流れ込む。そんなことはわかっていたはずなのに。
 暴れる足からナイフが抜ける。そこからも感情廃液が出入りし始める。やがてナイフを得た海はそれ自体が刃物のようになり僕の全身を切り刻む――ように思えた。傷まみれになる僕の体はあらゆる場所から感情廃液に侵され、どす黒いものに満たされていく。そんなものは幻覚にすぎないと思いたいのだけれど、そして実際にそうなのだろうけれど、その感覚は僕にとっては何よりも現実的なものだった。抗えない。逃れられない。沈む体は海に取り込まれ、たまらない嫌悪感と、苦痛と、恐怖と、わずかながら確かに存在する恍惚に支配されてしまう。
 もう沈んでいくのだか浮かんでいくのだかもわからない。ただおぞましい黒い海の中に僕は漂っている。ごぼごぼという泡の音とともに不気味な心地よさが膨らみ、妙に気分が高揚した。行き場のない吐き気すら祝福したいように思える。僕の生きている証拠として。僕が僕である証明として。
 水中でも涙は流れるものだろうか。僕の目から涙が一粒だけこぼれ、黒い海に消えていったような気がした。

 どれだけ漂ったのだろう。ふと気がついた頃には体を包む感覚が軽くなっていた。あのドロドロした感じはもうない。深く沈んだのか、遠く流されたのか、感情廃液まみれの領域からは抜け出しているらしい。それでも海は黒い。目は不思議と痛まないが何も見えない。
 ここは確かに水中だ。けれど、息ができているように思える。空気の代わりに水で呼吸をしているような、そんな妙な状態。
 居心地がいい。
 ここが僕のいるべき場所であるかのように。
 やっとここへ帰ってこれた、なんて風に感じながら、勇気を出して体を動かす。全身の傷が痛み始めるけれど気にならない。そこから余計なものが洗い流されていくように思う。気持ちがいい。とても幸せな気分。
 何も見えないのが嬉しかった。恐ろしいものを見ることもない。僕の姿を見られることもない。もう何を気にすることもないのだ。
 もしかすれば怪物のような魚やタコなんかに食われるかもしれない。それでもかまわない。その方が生き物らしいのだから。

 僕はここで生きていくのだ。
 そんな儚い夢を見た。

更新日:2019-12-31 14:01:48

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