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第二章
第二章
風の音を聞いていた。
目の前には暗闇が広がるばかりで、何も見えない。だから、ベスナは耳元をかすめてゆく風の音を聞いていた。それしか、できることがないのだ。
否、見えているものがひとつだけある。静かにたたずむ背中だった。
短い金髪と、金糸の刺繍が鮮やかな青い軍服。彼は、ベスナに背を向けていた。
ベスナは、その背中に見覚えがあった。だから、手を伸ばした。その腕を掴もうとした。
しかし、伸ばしたと思っていた手は実際にはぴくりとも動いておらず、その背中に向けることすらできない。ベスナの体は、金縛りに遭ったように動かなかった。
ややあって、背中は動き出した。ベスナに背を向けたまま、歩き出したのだ。
――待って! 行かないで!
叫んだつもりでも声は出ておらず、背中は立ち止まらない。
――待ってよ! おいて行かないで! 私は……私は、ひとりじゃ何もできない……役立たずなの……。だから……だから、行かないで!
彼は、応えない。
――待って……おいて行かないで……ロッドセン!
声は喉の奥で詰まったまま、背中も遠ざかって行くばかり。
ベスナはどうすることもできずに、ただ、風の音を聞いていた。
1
父王が倒れてから、四日が経った。騎士、兵隊と魔法隊は相変わらず、西の国への進軍を続けている。
暗い気持ちで目を覚ましたベスナは、酷い夢、と呟いて目をこすった。月のペンダントに触れて気を取り直し、寝間着からいつものドレスに着替えを済ませる。
寝間着をベッドに放ったところで、ドアがノックされた。少し肩を震わせつつ、はい、と返事をすると、顔を覗かせたのはアンだった。ベスナは安堵する。アンは食事を乗せたカートを押して入って来た。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、アン」
この四日間、ベスナはアンとともに私室で朝食を取った。用意してくれるのもアンで、焼きたてのパンにベーコンエッグ、コーンスープにヨーグルトとフルーツ、そして苦いコーヒーだ。
「今日も酷い空ね」ベスナは呟いた。「鳥が全然飛んでないわ」
「そうですわね……」
東の国がおかしくなってから、国の上空は黒い雲で覆われていた。この四日間、晴れた空を見ていない。城内も、従者の姿もなくなってしまい、まるで廃墟になったように静まり返っている。騎士、兵隊と魔法隊は進軍を続けているためだが、従者はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。たまにジェマの騎士隊を見かけたが、ベスナを気に留める者はいなかった。
「……あのね、アン」
パンをちぎって頬張り、ベスナは言った。
「ロッドセンのことを覚えてる?」
「ええ、もちろん」アンは頷く。「姫様の双子のお兄様の、ロッドセン王子ですわね」
「そう。あのね……夢にロッドセンが出てきたの」
コーヒーをすすったアンは、まあ、とそばかすだらけの顔に驚いた色を浮かべた。
「それで、王子はなんておっしゃるんです?」
「何も……。私から見えてたのは、背中だけだから……」
「ということは、本当にロッドセン王子なのかも分からない、という……?」
「まあ、そうなるわね」
ベスナが頷くと、アンは控えめに笑った。そして、ベスナを元気づけるように言う。
「ロッドセン王子が姫様の夢にお出になったのは、きっとロッドセン王子が姫様のことを助けにいらっしゃろうとしているからですわ」
「……そうかしら」
「きっとそうですわ。ロッドセン王子を信じましょう、姫様」
「……ええ、そうね」
風の音を聞いていた。
目の前には暗闇が広がるばかりで、何も見えない。だから、ベスナは耳元をかすめてゆく風の音を聞いていた。それしか、できることがないのだ。
否、見えているものがひとつだけある。静かにたたずむ背中だった。
短い金髪と、金糸の刺繍が鮮やかな青い軍服。彼は、ベスナに背を向けていた。
ベスナは、その背中に見覚えがあった。だから、手を伸ばした。その腕を掴もうとした。
しかし、伸ばしたと思っていた手は実際にはぴくりとも動いておらず、その背中に向けることすらできない。ベスナの体は、金縛りに遭ったように動かなかった。
ややあって、背中は動き出した。ベスナに背を向けたまま、歩き出したのだ。
――待って! 行かないで!
叫んだつもりでも声は出ておらず、背中は立ち止まらない。
――待ってよ! おいて行かないで! 私は……私は、ひとりじゃ何もできない……役立たずなの……。だから……だから、行かないで!
彼は、応えない。
――待って……おいて行かないで……ロッドセン!
声は喉の奥で詰まったまま、背中も遠ざかって行くばかり。
ベスナはどうすることもできずに、ただ、風の音を聞いていた。
1
父王が倒れてから、四日が経った。騎士、兵隊と魔法隊は相変わらず、西の国への進軍を続けている。
暗い気持ちで目を覚ましたベスナは、酷い夢、と呟いて目をこすった。月のペンダントに触れて気を取り直し、寝間着からいつものドレスに着替えを済ませる。
寝間着をベッドに放ったところで、ドアがノックされた。少し肩を震わせつつ、はい、と返事をすると、顔を覗かせたのはアンだった。ベスナは安堵する。アンは食事を乗せたカートを押して入って来た。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、アン」
この四日間、ベスナはアンとともに私室で朝食を取った。用意してくれるのもアンで、焼きたてのパンにベーコンエッグ、コーンスープにヨーグルトとフルーツ、そして苦いコーヒーだ。
「今日も酷い空ね」ベスナは呟いた。「鳥が全然飛んでないわ」
「そうですわね……」
東の国がおかしくなってから、国の上空は黒い雲で覆われていた。この四日間、晴れた空を見ていない。城内も、従者の姿もなくなってしまい、まるで廃墟になったように静まり返っている。騎士、兵隊と魔法隊は進軍を続けているためだが、従者はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。たまにジェマの騎士隊を見かけたが、ベスナを気に留める者はいなかった。
「……あのね、アン」
パンをちぎって頬張り、ベスナは言った。
「ロッドセンのことを覚えてる?」
「ええ、もちろん」アンは頷く。「姫様の双子のお兄様の、ロッドセン王子ですわね」
「そう。あのね……夢にロッドセンが出てきたの」
コーヒーをすすったアンは、まあ、とそばかすだらけの顔に驚いた色を浮かべた。
「それで、王子はなんておっしゃるんです?」
「何も……。私から見えてたのは、背中だけだから……」
「ということは、本当にロッドセン王子なのかも分からない、という……?」
「まあ、そうなるわね」
ベスナが頷くと、アンは控えめに笑った。そして、ベスナを元気づけるように言う。
「ロッドセン王子が姫様の夢にお出になったのは、きっとロッドセン王子が姫様のことを助けにいらっしゃろうとしているからですわ」
「……そうかしら」
「きっとそうですわ。ロッドセン王子を信じましょう、姫様」
「……ええ、そうね」
更新日:2019-08-28 10:26:01