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第一章

   1

 ベスナはため息をついた。
 城下町の空を覆うどんよりと暗い雲は、まるで涙を落とすように静かに雨を降らせている。先ほどまで晴れ渡っていたため、町の民も慌てて洗濯物を取り込んだり、家に駆け込んだりして雨を避けた。ほうきや絨毯で優雅に空を飛んでいた魔法使いたちも、急いで地面へと降りて来る。
(ただの通り雨よね……)
 町へ出て来たとき、よもや雨が降るなどとは思っておらず、ベスナは傘を持って来ていなかった。そのため、いまは町外れの店の軒下に避難している。雨がすぐに通り過ぎてしまうことを祈っていると、風が少し冷たくなってきたようだ。
 空を見上げ、ベスナはまたため息を落とした。急激に増した湿気が、長い金髪にまとわりついてくるのがうっとうしい。青色のワンピースのポケットを探ってみたが、髪留めのたぐいは持って来ていない。ベスナはまたため息をつくと、首にかかる髪を払った。
 そのとき、自分が背にしていた窓が開く音がするので、ベスナは慌ててかがんだ。
「おっと。失礼」
 そう言って窓から顔を出したのは、頭から顔の半分を覆い目元が見えるだけの黒いヴェールとターバンの人物。少し鋭い瞳は、澄んだアメジストの色。声色からして青年で、年もベスナとそう遠くなさそうに見える。
 青年は空の様子を見て、また店の中に戻って行った。
 ベスナは窓から空へと視線を戻し、この日何度目かのため息を落とした。
「中に入りませんか」
 そう呼びかける声に、ベスナは振り向いた。店の入り口のほうから彼女を覗き込んでいたのは、先ほど窓から顔を出したヴェールの青年だった。彼は、足元まで隠す長いローブを身にまとっている。ベスナは、そのローブに見覚えがあった。
「でも」ベスナは言う。「私、お客じゃないし……」
「雨、まだやまないですよ」
 そう言い青年が店に戻って行くので、ベスナは窓から店内をうかがいつつ立ち上がった。
 入り口のほうに回り、そろりと店の中を覗き込んでみると、店の中心にカウンターが見える。その奥の壁は一面が棚になっており、いくつもの小瓶が並べられていた。
 カウンターと棚のあいだにあるスペースに小さな作業台があり、先ほどの青年が作業をする手元を、短い茶髪の少年が集中して覗き込んでいる。
「ドア、閉めてくれますか」
 手元に視線を落としたまま青年が言う。ベスナは本当に入っていいものか悩んでから、少しのあいだだけ雨宿りさせてもらうことにして、店内に入りドアを閉めた。
「こっちに座って!」
 作業台から立ち上がった少年が、作業台の横にある小さな丸いテーブルにベスナを促す。そして少年は壁の棚に歩み寄ると、高くない背を懸命に伸ばして棚を開け、中からひとつの瓶を取り出した。その瓶には、茶葉のようなものが詰め込まれている。少年はその瓶を小脇に抱え、薄暗い店の奥へと走って行った。
 ここは薬屋のようだ、とベスナは思った。棚に並べられた瓶には粉末や葉などが詰められており、作業台の上には薬包紙や乳鉢などの道具が見える。
 ベスナは、ヴェールの青年を観察した。青年は、いくつかの小鉢から薄い薬包紙に粉末を出し、丁寧に混ぜ合わせたあと、ぱち、と指を鳴らす。すると、ぽん、と音を立てて粉末が小さな爆発を起こした。その途端に、つんと鼻を突くようなにおいがして、ベスナは思わず手で鼻を覆う。青年は作業台から立ち上がり、換気扇の線を引っ張って羽を回した。

更新日:2019-08-28 10:14:46

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